チャドクガ(1)
「だから顔が痛いって言ってるでしょう! 早くなんとかしなさいよ、お金払ったんだから!」
「なんでそんな事、あんたみたいなのに話さなきゃなんないのよ!」
膝の上で光る虫かごの真ん中から、ヒステリックに叫ぶ女の声がしている。かれこれ三十分近くにはなろうか、というところで、うんざりした葵はかごを棚に置いた。
それでも女の声は止まるどころか、ますます大きくなっていく。他の虫かごは、まるでその女に関わるまいとでも言うかのように沈黙していた。
「なにこれ……」
「たまにいらっしゃるんですよ、こういうお客様も。むしろ最初から大人しく喋ってくれるかたの方が珍しいですね」
片目の男はそう言って苦笑した。
あれから三日後、葵は再び温室に来ていた。
家に帰ってすぐは、あの奇妙な温室での出来事は
心配するのも当然で、水も持たずに昼間に出かけた孫が、夕方まで帰らなかったのだ。熱中症でも起こしてどこかで倒れているんじゃないかと、山狩りをする寸前だったらしい。
しかしその事が、却って葵に、あの温室は確かにあったのだと確信を持たせた。理由は麦茶だ。片目の男は存在そのものが怪しげだったが、きちんと水分補給をさせてくれたのだ。もしあれがただの夢なら、葵は草に埋もれて倒れていたことだろう。
「悪いのはあたしじゃないわ! そもそもうちの旦那が持ち込んだものなんだから!」
「何をどうやって、って、だから毛虫よ! よその家の庭から服につけて帰ったのよ」
「どんな毛虫かなんて知らないわよ! 毛虫なんてみんな同じようなものでしょう?」
おそらく応対しているのは片目の男で、女の声だけがこのかごに残されているようで、話はとても断片的だ。
それでも、どうやら毒のある毛虫に顔を刺されて痛がっているらしい、というのがようやく分かった。と、そこまできて片目の男はかごに手をかざした。
ふっ、とかごの光が消えて女の声も止まる。温室中に響いていた声が突然なくなって、ざぁあという雨音が戻ってきた。外が晴れていても聞こえるこの雨音は、温室のどこから聞こえるのかわからないが、今は癒しの音楽のようだ。
「このかたの時は大変だったんですよねぇ。それにしても引きの悪い日だ。今日はここまでにしておきましょう」
そう言って立ち上がった男に、葵は慌てた。ここまで話を聞いておいて、結局話の肝心なところも結論も分からずに終わりでは、気になって仕方ない。
「あの、せめてもうちょっと……」
「え、聞きたいですか? でも大変ですよ、確かあと二時間はこの状態でしたから」
そう言われると、さすがに葵も戸惑った。続きを知りたいのはやまやまなのだが、怒鳴り声を二時間も聞かされるなんて、何の修行かと思うレベルだ。
そんな葵の気持ちを読み取ったのか、男はまた椅子に腰を落とすと、「仕方ないですねぇ」と笑った。
「わたしが代わりにお話しするので、それで良ければお聞かせしますよ」
「ほ、ほんとですか!?」
「色々と端折りますけどね。では……」
そう言うと、男はかごの真ん中に再び手をかざした。まるでそこから手で何かを聞き取っているようだったが、あのヒステリックな声はもうしなかった。
「そうですね、始まりは彼女のご主人が帰宅した時でした。今日は飲み会があったのだと言って、酔って帰って来たわけです。
普段のご主人なら、帰宅したらすぐに彼女に抱き着いてくるんですが、その日は彼女が手を伸ばしたのを避けるように玄関に入ったんだそうです。
おかしいな、と思ったその時に、彼女が伸ばした手にご主人のコートが当たって、チクッと痛んだんだそうです」
「静電気とか、そういうのじゃなくてですか?」
「ええ、彼女も最初はそう思ったようです。ですがこの痛んだ場所は、それから赤く
ですがもちろん、彼女には心当たりがありません。それでもこの時は、それっきりの事だと思っていたそうです。
彼女が異変を感じたのは、それから一週間後でした。またご主人が酔って帰って、彼女に抱き着きもせず、すれ違う時に今度は顔がコートに触れたんです」
「またかぶれたんですか、しかも今度は顔が」
「ええ、その通り。明らかにご主人の態度はおかしい上に、コートに何か付けて帰ってきている。それで怪しんだ彼女は、一週間後にご主人の会社に行って、後をつけたんです。
案の定、ご主人はまっすぐに帰宅するでもなく、飲み会に行くでもなく、とあるアパートに入っていったんです。庭にサザンカのあるアパートだったそうです」
そこまで話してから、男は意味深そうな流し目を葵によこした。この意味が分かるか、という問いかけのようだった。
しばらく考えてから、葵はハッとした。こういう話は、ドラマなどでよく見るものだと気が付いた。
「まさか、浮気だったんですか?」
「ご名答! そうか、お嬢さんのお歳くらいになれば察しは付くものでしょうね。そうなんです、そして庭木にはサザンカ。
サザンカにつく毛虫の中には、風で毒のある毛が飛ぶものがいるんです。それがチャドクガという蛾の幼虫です。ご主人のコートに付いていたのは、このチャドクガの毛だったんです」
そこまで聞いて、葵は内心で首を傾げた。この温室で浮気を断つ相談などしても無意味だろうし、女が訴えていたのは「顔が痛い」という事だった。何とかしろと言っていたのもその事で、浮気とは直接関係がないように思えた。
ではチャドクガの方はと言えば、これは腫れが引くのをもうちょっと待つしかないのでは、としか思えなくて、そこに「虫との因果」らしきものがあるようには思えなかった。
そんな葵の様子を察したように、片目の男は「話はこれからですよ」と葵の手をポンポン叩いた。
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