雨音の温室で
葵はハッと目を覚ました。いつの間に眠っていたのか、揺り椅子に腰かけるように体を預け、タオルケットを掛けられていた。耳鳴りのように大きかったざぁざぁという雨音は、少し静かになっていた。
あの悲痛な訴えは夢だったのか、と思ってふと手元を見ると、意識を失う前に渡された虫かごをまだ両手に持っていた。光は消えて声も聞こえなくなっているが、それはあの訴えを葵に聞かせた物なのだ、と直感的に思った。
そうっと辺りを見回すと、そこはやはり薄暗い温室の中だった。積み上げられた虫かごは、光をほどほどに遮っているようで、外からの眩しい光は完全には届かないらしい。よくよく見れば天井からも、ひしめき合うようにして虫かごが下がっている。温室なのに涼しいのも、そのせいなのだと今更のように気が付いた。
「お目覚めですか」
葵が自分の状況を確認したのを見計らったかのように、片目の男が手に盆を持ってゆらりと現れた。盆の上には
男は片手で器用に、手近なテーブルの上から虫かごを取って積みなおすと、空いたところに盆を置いた。
「お疲れでしょうから、これを召し上がってください。少しはましになりますよ」
そう言われて初めて、葵は自分がぐったりしていることに気が付いた。指先すら動かすのが
葵は起き上がって虫かごを脇に置き、饅頭を手に取ると、もしゃもしゃとしばらく無心で頬張った。よく冷えた麦茶でそれを少しずつ飲み込んで、ふぅと一息つく。男の言う通り、じんわりと体に血が通い、力が入るようになっていく感覚がした。
その間、片目の男も葵の様子を見ながら、同じように饅頭を食べていた。葵の父や姉なら、小さな饅頭くらいは一口か二口で食べてしまうところだが、男はゆっくりと味わうように少しずつかじっていた。
その様子を見ながら、葵の中では様々な疑問が沸き上がってきていた。
一体この温室は何なのか、あの虫かごから聞こえてきた訴え、そしてあの夢はなんなのか。そもそもこの、半身に火傷を負った男は何者なのか。聞きたいことは山ほどある。
けれどそれらを問いただす前に、真っ先に葵の口から出たのは、全く別の事だった。
「あのかごから聞こえてきた声、ただの夢じゃないんですよね。あの女の人は、今は大丈夫なんですか?」
「おや、そこが気になりますか。お優しいのですね」
葵が身を乗り出して片目の男に尋ねると、男は意外そうに眉を上げた。
「別に、優しいとかそういうんじゃないです。ただ夢の中で、ここはそういう因果を断ち切る場所だって、そう言ってましたから。あの人は、誰か愛したい人ができたからここに来たんでしょう?」
真剣に尋ねる葵に、どこかからかうような調子だった男は、ふっと表情を緩めた。少しだけ微笑んだのだ、と葵が気づいた直後にはその顔は真顔になり、まっすぐ葵の目を見た。
「ええ、そうです。相思相愛の人が現れたんだと、彼女は笑顔で帰っていきましたよ。ま、その
「それじゃあやっぱり、ここは彼女の言った通りの場所なんですね」
「葵さん」
勢い込んで尋ねた葵は、不意に名前を呼ばれて体を固くした。ここに来てからすぐ、虫かごを渡されて眠ってしまった葵は、名乗ってもいないし名乗られてもいない。それなのに、目の前の男は自分の名前を知っている。
一体どうして、と更に疑問が重なる葵の前で、男は立ち上がると、上から葵の目を覗き込んだ。
男は何か言おうと口を開きかけたように見えた。しかしその時、ふっと温室の真ん中に光が差して、男はそちらを振り返った。
いつの間にかかなりの時間が経っていたらしく、日が大きく傾いていたのだ。壁に並んだかごとかごの隙間から、真っすぐに差し込んでくる光が、温室の真ん中まで届いていたのはわずかな時間だった。しばらく見つめているとその光はぼやけ、やがて見えなくなっていった。
「今日はもうお帰りなさい。あなたがいつ来てもいいように、明日からしばらくはここを開けておきますから。ほら、遅くなるとご家族が心配しますよ」
突然慌てはじめた男は、葵の手を引いて立たせると真っすぐドアへと向かった。その勢いに釣られてドアの前まで来てしまった葵は、何事かと首を傾げた。
「え、でも今何か言いかけたんじゃ?」
「それは次に来た時にでもお話ししましょう」
言うと、男は有無を言わさず葵をドアの外へと送り出した。すぐにばたんとドアが閉まり、かちゃりと鍵の回る音がして、葵は締め出されてしまった。
「もう、一体何なのよ!」
わけが分からないことだらけで、いきなり放り出された葵はドアに向かって大声で叫んだ。しかし今日は店じまいとばかりにそれ以上の反応はなく、仕方なく葵は、山ほどの疑問を抱えたまま帰宅した。
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