カナブン
あれは私が小学校の高学年の頃のことでした。
その頃の私は友達が少なく、変わり者扱いされていたようです。ようです、と言うのは、当時は自分でそのことが分からなかったからです。
私は虫が好きでした。何か虫を見つけては触ってみたり、声をかけたりしていましたし、困っているようなら助けるのが常でした。
ですが周りの女の子たちには、それがとても
そんな頃、一匹のカナブンと毎日出会うようになりました。
私の通っていた学校は、学年が上がるほど上の階に行くように教室が分かれていました。ですからその頃、高学年の私がいたのは三階です。その高さまで飛んでくる虫は珍しいのですが、近くに大きなクスノキがあって、その木を伝ってやってくるようでした。
私は毎日そのカナブンに挨拶するようになりました。虫の少ない三階で、毎日会える虫がいる、というのが嬉しかったんです。
相手はカナブンですから、なにも私に会いに来ていたわけではないでしょう。それは子供心に分かっていました。でも、私にとっては数少ない友人のようなものでした。
あのカナブンがいたのは、梅雨の頃だったように思います。すみません、私ももう二十年経って、あの頃のことは断片的にしか覚えていないのです。
でもあの日、雨が降っていたのは確かです。あの子はそのせいで死んだのですから。
話を戻しますね。
カナブンに毎日挨拶をしていると、それを男の子たちに
私は何も悪いことはしていませんし、カナブンだってただ樹液を吸うだけのおとなしい子です。ですが、人によってはクマバチのような大きなハチと勘違いすることもあるくらい、羽音が大きくてよく動き回ります。
カナブンが教室に入ってしまって、大騒ぎになったこともありました。迷い込んで困っているのはカナブンの方ですから、捕まえて逃がしてあげましたが、クラスメートたちは私の行動に驚いたようです。それ以来、すっかり敬遠されるようになってしまいました。
ある時、いつも通りカナブンに手を振って挨拶していると、クラスの男の子が声をかけてきました。
「お前、そんな事してたら、カナブンしか友達できんぞ」
と、忠告めいた事を言われました。
実際その通りだと、私にも分かっていました。でも、だからどうだと言うのでしょう。
「別にいいよ。自分の友達が嫌われ者だからって嫌われるなら、そんな人と友達になりたいとは思わないもん」
と私は言い返しました。
男の子は
そのまま梅雨も明けようかという時期がやって来ました。
その日は朝から大雨でした。廊下にも雨水が流れ込んで、走ると滑るから気をつけなさい、と言われていた日でした。
私はその日、毎朝やってくるカナブンがいないことに気づいていました。梅雨も終わりとはいえ、まだ時折、空気が冷たい日がありました。その日はそんな寒い日だったのです。
虫は寒いと動けなくなりますから、あのカナブンも今日は動けないんだろう、と思って気にしていませんでした。
しかしその日、掃除の時間になって廊下の洗い場に行ったとき、私はびっくりしました。
あのカナブンが、水浸しになった洗い場の隅で、動けなくなっていたのです。
私は慌ててカナブンを拾い上げましたが、
私はカナブンを両手でくるんで、ふーっと息を吹きかけました。少しでも温まって、体が乾けば飛べるかもしれない、と思ったのです。
その時、あの日私に忠告をしに来た男の子がやって来ました。
彼は私の手の中にカナブンがいると気づいたのでしょう。
「何とかしてやるから、ちょっと見せてみな」
と言いました。
困っていた私は、それを疑うこともなく素直に従いました。そう、あんな事を私に忠告するような子の前に、身動きできないカナブンを
彼はさっ、と私の手からカナブンを奪うと、いきなり階下へ投げ落としました。そして階段に向かって走り出すと、一気に駆け降りていきました。
「何をする気なの! やめて!」
と私は叫びながら後を追いましたが、すぐに彼の姿は見えなくなりました。
ようやく一階の中庭が見えるところまで来た時には、あの男の子が戻ってくるところでした。
「これでもういいだろ」
と彼は意地悪く言って、中庭の隅を指さしました。そこはクスノキの根元の近くでした。
私はとんでもないことが起こったのだと気が付いて、急いでそこへ駆け寄りました。ですが、もう手遅れでした。
無残にも、横向きに踏みつぶされて体があらぬ形になったカナブンが、地面に張り付けられたようになって死んでいました。
いえ、実際はまだ生きていたのかも知れません。黒い小さな丸い目が、こちらをじっと見ているような、何かを訴えているような気がしましたから。
でも、もうどうしようもありません。
私が
しかも、相手はカナブンを嫌っていた子です。分かっていたはずなのに。
助けを求めていたかもしれないあの子に、私は日暮れ近くまで気づかず、あまつさえ殺そうとするような人間に託したのです。見殺しにしたも同然です。
そこまで考えて、私は急に恐ろしくなりました。
私が助けようとしていなければ、あの子はきっと死ぬことはなかったはずです。
もっと言えば、私が忠告を聞き入れて、あの子に挨拶するのをやめていれば、男の子だってそれ以上は何もしなかったでしょう。
つまりは、私の身勝手であの子は死んだのです。あの子が好きなら、私は周りの言う事にもっと耳を傾けて、あの子がこんな死に方をしないように立ち回るべきでした。
そう思うと、あの子の亡骸を拾い上げることもできませんでした。
いつもならすぐに、近くの地面を掘って埋めてやるのに、それすらしないまま、逃げるように立ち去ることしかできませんでした。
それ以来、私は何も愛せなくなりました。
何かを好きだと思うと、あの子の目が頭に浮かぶのです。好きになったものに、人に、恐ろしい結末がやってこないようにするために、私は好きだと思うのをやめなければと考えるようになっていました。
でも苦しいのです。私の中で、消そうとしても消そうとしても、好きだという気持ちだけが湧いてくるのです。私は何も愛せないはずなのに。
どうか助けてください。
この場所は、虫と人との因縁を断ち切ってくれる場所だと聞いてやって来ました。
お願いです、私にあの子を忘れさせてください。私に人を愛させてください。
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