虫かご

間一髪かんいっぱつ、ってやつだったのかな」

「何がです?」

 葵は独り言に小さく呟いたのだが、男はそれを聞き逃さなかったらしい。すぐに立ち止まって肩越しに振り向いた。

「この雨ですよ、さっきまであんなかんかん照りだったのに」

 葵は今閉めたばかりのドアに手を当てた。まるで突然お米をこぼしたかのような、かなりの勢いで降り出したらしい雨音だ。

 ああ、と何か納得したように頷いた男は、すぐにドアの前まで戻ってきた。すっと手を伸ばしてきて、何をするのかと訝しんだ葵が脇へよけると、男は再びドアノブに手をかけた。

「勘違いですよ。ほら、雨なんて降っていませんから」

 そう言うと同時に開かれたドアの向こうは、さっきまでと同じ、じりじりと地面を焼くような夏の青空だった。


「え、じゃあこの雨音は……?」

 ドアの向こうは快晴だったが、相変わらずざぁざぁという雨音は続いている。つまりは、この雨音は温室の中から聞こえているのだ、と気づいた葵は男の顔を見上げた。そして少しだけ後ずさりした。

 男の右頬には、やけどのあとと思しきものが広がり、右目は白い眼帯で隠されていた。さっきは服装に気を取られて気づかなかったが、伸ばされた右手首にもその火傷の痕がうっすらと見える。

 それらをまじまじと見てしまってから、葵は慌てた。自分の取った行動が、男にはとても失礼なものだと気が付いたからだ。すぐに謝ろうと口を開いたが、その唇に男は人差し指を当てて、にこりと笑った。


「こんな姿を見たら、誰だって驚くのは当たり前です。お気になさらずに。それよりも……」

 ドアを閉めなおした男は、一つだけの目で葵の顔をまじまじと見つめた。きまりの悪い思いをしているところに、顔をじっと見つめられて、葵はなんだか逃げ出したくなった。

 しかしそんな葵の様子には頓着とんちゃくせず、男はすぐそばの低い棚から、四角い箱のようなものを取って葵に差し出した。

「これを見てください。ほら、よく見てください」


 男に渡されたそれは、ちょうど両手に収まるくらいの小さな竹製の虫かごだった。葵は言われるままに、その古そうな虫かごをまじまじと見た。

 葵が知る限り今では、虫かごと言えばプラスチック製のものばかりだ。こんな竹製の虫かごがあると知っているのは、暑中見舞いにそういうデザインの立体カードを貰ったことがあるからだ。それも祖母に聞いてやっと分かったくらいで、実物を見るのは初めてだった。

 丁寧に作られた細工物のような虫かごは、しかし葵が思っていたよりよほど頑丈そうで、指先に少し力を入れてもびくともしない。目を凝らしても中に虫はいないようだったが、虫を出し入れする蓋のところには、「封」と書かれた白い紙が貼られていて、開けられなくなっている。新品はこうして売るものなんだろうか、と思いながら顔を上げて男の方を見ると、男は「もっとよく見て、ほら」と、かごの真ん中を指さした。


 葵は実のところ、虫が苦手だった。虫かごそのものには興味をそそられたものの、中の虫はできれば見たくない、というのが本音だ。

 けれど男は、麦茶を出すと言ったのも忘れたかのようにその場から動かず、葵をじっと見つめている。もうごめんなさいと言って帰ろうか、と葵が思い始めた時、不意に虫かごから女性の声が微かに聞こえた。


「お願いです、もう忘れたいんです」


 えっ、と葵が虫かごに視線を戻すと、虫かごの中が淡く光っているのが見えた。声はそこから聞こえてくるようで、何やら切羽詰まった訴えのようだ。


「あなたに話せば忘れさせてくれる、と聞いてここまで来ました。どうか聞いてください」

「私は二十年前に、虫を見殺しにしました。ええ、虫を見殺しなんて、大げさだと思うでしょうね」

「でも忘れられないんです、あの小さな目が。お願いです、もう忘れさせてください」


 それはまだ若い女性の声のようだった。虫の事を忘れさせてほしい、と懇願こんがんするその言葉が、最初は小さく、次第にはっきりと聞こえてくるようになって、葵は男の顔を見た。

「やっぱり、君には聞こえるんですね」

 驚く葵の表情を読み取ったのか、男は嬉しそうな、楽しそうな声を上げた。しかし葵にしてみれば、楽しむどころではない。虫かごが光を放ち、中からは人の声が聞こえるのだ。それらしい仕掛けがあるようにも見えない、ただの虫かごだというのに。


 ふとそこで、葵は顔を上げて温室の中を見回した。外からガラス越しに見た時に見えた、四角い箱の詰まった温室。そこは、隙間なく無数の光る虫かごが積み上げられた、まるで現実離れした空間だった。

 ざぁあっ、という雨音がまるで耳鳴りのように、葵の頭の中まで響いた。

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