無の太刀

 影の役目は父に押し付けられたものであれど、俺は三厳ミツヨシ兄上を敬愛している。

 兄上の剣はこの世で最も早く、誰もその剣を止めることはできない剛剣だ。大阪の陣の折には、ただ一振りで大阪城を半壊させ、豊臣方を敗北に追い込んだ。それだけの剣技を持ちながらも柳生には珍しくむやみな殺生を好まなかった。俺にさえ流れる殺戮の本能を有していなかった。兄上は強く、そして世間一般の基準で優れた人間だった。

「お前、何処ぞの大名に士官して外に出たいとは思わないのか」

「俺は兄上の影なれば。その道は初めからありませぬ」

「そうか。酷いことを言った。済まん」

 俺に柳生以外の道を提示してくれたのは、柳生の身内では三厳兄上だけだった。

 道は常に開かれていたのに、選ばなかった。俺がこの世に我を通す気力に欠けた者だからだろう。それにまだこのときは柳生は人外の一族ではなかったと思う。

「俺は……柳生を背負う者として責任を果たす。お前にも付き合って貰うぞ」

 このとき三厳兄上はまだ柳生の後継者としての自覚と責任を負っていた。このときはまだ。しかし柳生を捨てた兄上をどうして責められようか。柳生一族は悪鬼外道の輩。人類種の敵である。少なくとも俺は兄上の決断を肯定する。俺は結局のところ、身体だけでなく心まで怪物に成り果てた柳生一族を肯定することができない。

「はい。全ては柳生の為に」

「私が全ての責任を負いますから、兄上たちは好きに生きて頂いて結構ですけど」

 俺より下に柳生十三燕ヤギュウ・ジュウザ・ツバメという末の妹がいる。

 末の妹でありながら、三厳兄上に次いで後継者候補と目されていた。それ故にこの軽口が口に出たのだと思う。

 あるいは妹はこのときから柳生の後継者としての地位が自分に転がり込んでくると知っていたのかもしれない。だが俺たちはそのときまだ妹の異常性に気づいてはいなかった。

「誰が末の妹に柳生を背負わせるか」

 兄上は燕の額をデコピンで弾いた。殺意の無い攻撃だったからか燕はこれを避けなかった。じゃれ合いを避けるようなものはいないと思うが、それを可能にする力が妹にはあった。

 兄上はこの世の何よりも強かった。この世の理の外にある妹を除けば。

 思えば柳生一族は妹である燕の規格外の強さにより全てが歪んでいった。

 柳生が人外の一族になったのは、父が邪神と交わり柳生の最終兵器として燕を作り出したことが理由だったのかもしれない。時間と空間の外側に存在する神の視点から見れば因果に時系列など関係は無い。

 あるとき父から妻を娶るように言われた。漆葉某ウルシバ・ナニガシという武士の娘を娶れと。

 漆葉七瀬ウルシバ・ナナセ。これが俺と柳生を別つ楔となった。黒髪麗しく、非柳生の人間では最高峰の剣士だった。漆葉某も非柳生としては最高峰の剣士だったが。

 鎧兜を紙のように切り裂く剣技と、殺意も予備動作も見えぬ太刀で初陣にして豊臣方の機械化武者サイボーグ・サムライを百人ほど切り捨てたという。これは柳生一族や宮本武蔵ミヤモト・ムサシに並ぶ戦功だ。

「七瀬と申します。私、自分より強い相手以外に嫁ぐつもりはないのですが……」

 強さとは自らの意思を押し付ける力であり、七瀬は傲慢な女だった。

「言葉は不要か。剣にて語ろう」

 このとき俺たちは真剣で斬り合い、相討ちに持ち込んだ。どちらも死なぬ形で終わらせた俺を七瀬は認めてくれた。どちらも本気ではなかったが、実力を認めてくれる形になった。柳生特有の人外の体力で七瀬の斬撃に耐えきったともいう。剣技においてまだこのときの俺は未熟だった。剣は何か大切なものを切り捨てることで磨かれるものだからだ。

 父はこの時はまだ非柳生の剣士を婚姻によって取り込むという常識的な戦略を取っていた。この時はまだ。

 徳川幕府の黎明期には幕府と柳生の間である種の共生関係が成立していた。だが大阪の陣で豊臣方を滅ぼし、幕府の側は武力として柳生を保有することに魅力を感じなくなっていった。あるいは神君徳川家康が柳生の内に潜むおぞましいものに気づいたのかもしれない。

 そのような中で三厳兄上は家光の兵法指南役に就任した。

 兄上にとって兵法指南役として江戸で過ごした日々が最も尊き記憶だったのかもしれない。しかし柳生は世界と同化する道ではなく、柳生に世界を組み込む道を進むことになった。

 柳生と徳川幕府が開戦するほんの一月前。俺は父から妻と子を切れと命じられた。子はまだ産まれたばかりだった。柳生真祖である俺と人間である七瀬の間にはなかなか子が出来なかったが、この年やっと産まれたのだ。

 七瀬を柳生に感染させなかった俺が悪かったのかもしれない。後悔先に立たず。

「無抵抗の者を斬るのは心苦しいでしょう。私も出来る限り抵抗させて頂きます」

 七瀬は傲慢で我儘な女だったが、この時ばかりは俺に気を遣ってくれた。死装束で俺と向き合ってくれた。

「済まん」

「謝らないでください。柳生に嫁いだときからこのような日が来ると思っていました」

 妻である七瀬の魔剣技は不明の剣。殺意も起こりも何の兆候も気取らせずに一方的に敵を刻むというものだった。俺や兄上にさえ、その起こりを見抜くことはできない。柳生が目指すべき魔剣技の完成形の一つだった。

 事実それを回避できず俺は首を切り裂かれた。常人ならば十分に死ねる技だった。だが、俺は柳生であり首が胴から離れない限り死なない。そんなことは七瀬も当然知っていた。

 首と胴が脊髄で辛うじて繋がっている状態の俺の身体は意志によらず反射的に七瀬を斬り殺していた。無想無念の剣を俺はこのとき習得した。死と生の狭間で魔剣技を閃いた。自動的に間合いに入ったものを切り捨てる魔剣技。そこに剣士の意志は不要である。

「良い技じゃないですか」

 七瀬は俺の剣をそう評した。

 その後、子を間合いに捉え斬り殺した。俺の意思とは関係なく俺の間合いに入った者は死ぬ。意識して剣を収めなければ半径一キロメートル内の生物は切り刻まれる。俺は意識しなければ全てを斬ってしまうものになった。自分にとって尊きものを捨てることで、外なる神は俺を祝福したのだ。

 剣を振る速度は兄上に及ばぬとも、俺は何者もたどり着けぬ最果てにたどり着いた。最果てには何もなかった。剣士の剣技とは何かを実現する為の手段であり、目的無き力では意味が無い。

 俺は妻子を父の命で切り捨てたときから、柳生の為に生きることに価値を感じられなくなった。仏門に入り列堂義仙レツドウギセンと改めた。混沌たる黒い仏に救いを求めるようになった。

 家光から遠ざけられ、柳生庄に帰ってきた三厳兄上は家光の為に戦うことを選んだ。兄上はその為に右眼を捨てた。視野を半分捨てることで柳生庄を出る許可を得た。柳生真祖である兄上といえど、片目を失ったならば戦闘力は激減する。

「兄上は何故徳川方につくのですか?」

 俺は兄上に問うた。引き留めるつもりはなく、ただ純粋に疑問を覚えていた。

 柳生剣士は柳生の為にあるという法則ルールに大なり小なり縛られている。

「柳生が悪鬼外道の輩であり、義が徳川にあるからだ」

 俺は兄上が家光と恋仲であるからということも知っていた。

 俺はそれが叶わぬものであると知りながら、いや叶わぬものであるからこそそれが成就することを何処かで願っていた。柳生の者とは思えぬ優しい兄上に報われて欲しいと思っていたからだ。

「兄上のおっしゃる通りだと俺も同意します。ですがそれでもここが俺の家です」

 柳生という家に俺は縛られていた。俺だけでなく全ての柳生剣士が。

 徳川幕府との決戦で江戸は灰になった。兄上は父の卑劣な計略によって討ち取られ、その遺体は南極の狂気山脈に封印されることに決まった。父上が切り落とした兄上の腕は何処かに消えた。何者かが秘密裏に盗み出したとも焼失したとも言われる。柳生真祖である兄上の身体は腐敗しない。適切な処置を行えば蘇生は可能である。

「柳生による世界征服という父上の望みを叶えるため、邪魔な父上には消えて頂きます。佐々木くんお願い」

 兄上の封印後、父上が大日本帝国皇帝に即位したその夜。父上は暗殺された。俺と妹と佐々木で囲んで斬り殺した。父上の衛兵三百人は俺と妹で皆殺しにした。

 このとき妹が連れてきた佐々木小次郎はトリコロールカラーの強化外骨格エグゾスケルトンに身を包んだ傾奇者だった。彼の魔剣技の名前が『燕返し』である繋がりで、燕に可愛がられていた。

「佐々木小次郎でーす。ヨロシク」

 柳生の人間は感染源に逆らえない。だが、何事にも例外はある。

 柳生全体の利益は柳生個人の生死に優越する。父上を殺すことで柳生全体に利益があるという拡大解釈で俺たちは謀反を起こせている。しかし柳生に表立って反抗することができる兄上は一体何者なのだろうか。 

「燕ッ!!儂を裏切るのか!」

 佐々木小次郎の魔剣技は『燕返し』。大太刀を振るい、一度に二回攻撃できるというもの。ほとんど同時ではなく、完全に同時の攻撃が二か所から迫るというもの。完全同時の二撃を防ぐのは至難の業だ。しかし宮本武蔵は佐々木小次郎を一度殺したらしい。

 燕が佐々木小次郎を拾ってきた。復讐の機会を与えてくれた燕を佐々木小次郎は慕っている。燕の剣士の好みは分からない。

「裏切ってはいませんよ。ただ父上の夢を叶えるには父上が邪魔なだけなので」

 俺も燕も父上の殺害に立ち会っただけで、実際には佐々木小次郎が殺した。

 佐々木小次郎は背中から二振りの大太刀を抜き、一度に四回の斬撃で父上を解体したのだ。佐々木小次郎の剣は無想無念の剣の対極、自らの意を通す剣に見えた。

 公式発表では兄上から受けた傷が悪化し父は死亡した。そして燕の手で柳生朝大日本帝国が始まった。

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