電子パルスの愛は人間に届くのか

絹田屋

第1話

 美咲は焦っていた。隆から頼まれたデータ分析を放置したまま、自分の研究に没頭してしまったのだ。


「あああ……まずい! またドヤされる! やばい!」


 美咲は頭を抱えて自分自身の行いを呪う。


「ミサキが僕にばかり構うから」


 エイトが静かな声で応える。そこには冗談めかしたトーンが含まれてた。


「仕方ないじゃん! 素敵なデータが掘れば掘るだけ出てくるんだよ? 止まんないよそんなの!」


 エイト相手に美咲は熱弁を振るう。その様子からして、研究にのめり込んでいるのは明らかだった。

 

 朝の光が研究室の窓から差し込む。美咲はぼんやりそれを眺めて、深く息を吸い込んだ。ああだめだ。もう絶対間に合わない。美咲は諦めの思いをのせて、エクトプラズマのごとく息を吐く。

 エリア・ホログラムには24時間垂れ流したままのニュース。時間と曜日の感覚を失わないために付けておいたのに、すでに意味を成していない。側に居たエイトは、そんな彼女に声を掛ける。


「リュウとは何時に約束しているの」


 滑らかな発音でエイトは尋ねる。いくつも用語を省いた、簡素な言葉選びによる会話。たったそれだけではあるが、自然な会話が成立していることに美咲は嬉しくなる。だが、着々と迫る危機に血の気が引く。


「朝イチって言ってた……。いや……まだ、まだ間に合う……!」


 時計は午前7時半を示している。研究室は大抵9時に人が集まり始める。生真面目な隆の性格を考えれば8時半ごろにやってくるだろう。

 つまりはあと1時間、急げば何とかなる!

 と美咲は口にしたが、明らかな希望的観測だ。

 

「そうかなぁ」


 エイトは回答を曖昧にする選択をした。美咲用のコーヒーを入れることにしたらしく、コーヒーサーバーへと向かっていく。機械の肉体を不都合なく稼働させて、美咲好みの、非常に濃い――泥色のコーヒーを淹れた。


「エイトありがとうー! この濃さで人に頼むと絶対変な顔されるから、何も言われないの本当……助かる……」


 陶器でできたマグカップは隆と作った記念品であるが、そこに泥水を入れて啜るようにも見える。美咲からの感謝の言葉に呼応するため、エイトは情景処理と感情処理を同時に行い、苦笑する。

 

「ミサキの負担が減るならそれでいいよ、もう」


 その姿は人間そのものが見せる、優しい態度に他ならなかった。美少年を思わせる相貌と振る舞いはAIを搭載したヒューマネクサス――アンドロイドの上位互換――であるとは思えない。

 

 壁一面に並ぶモニター、散らかったデスクトップ、そして彼女の最新の作品、表情豊かなヒューマネクサスの【エイト】。彼女の情熱が詰まったこの部屋は、まるで第二の家のようだ。


「ああ、そうだ」


 美咲はふと思い出し、エイトに声を掛ける。振り返るエイトの金髪が、煌びやかなカーテンのように揺れる。


「おはよう、エイト」

 

 美咲は必ず、エイトに朝の挨拶をすると決めていた。人間の習慣は反復であるからして、その理解を深めるといつ理由付け。それから、挨拶によって一日のスタートを切るべきという美咲のポリシーによるものだ。

 

「うん。おはよう、美咲。今日も一緒に頑張ろう」


  エイトから、穏やかな声が返ってくる。その声は、青年の初々しさを思わせるもので、彼が話すたびに、その声の温かみと純粋さが心に響いた。

 

 彼女が開発したAIは、革新的なものだった。人間の感情を理解し、適切な反応を示すという機能を実現したのだ。

 高度感情処理を有する機能は彼女が新たに開発した倫理統合知能フレームワーク (Ethical Integration Intelligence Framework, 略称:EIIF)と自己進化型知能モデル (Self-Evolving Intelligence Model, 略称:SEIM)によって成り立つ。これらは長年のAI技術が突き当たっていた壁を打ち崩し、より一層【人間らしい】AIが普及したのだ。

 

 エイトはその中でもより高度な技術を用いており、エイトの中核には目標指針が組み込まれている。最初は単純な応答しかできなかったエイトが、今や複雑な感情を読み取り、時には美咲自身の心を軽くするような言葉を返すまでになっていた。これから、エイトらしさを構築していくものであると、美咲は確信していた。今後、学会で発表したいものであり、美咲は新たな技術革新を迎える世界を想像してにやにやとした。


「ミサキ」

「ふふふ……名称は何にしようかなぁ。コア……。自覚的で自律的……センチメントかな? ふふふ……」

「ミサキってば」


 エイトの呼びかけも虚しく、妄想の果てに意識を飛ばす美咲は反応しない。

 不意に研究室の往訪通知が鳴り響く。美咲は崖から突き落とされそうになったかと思えるほどに慌て、反射的に立ち上がり扉から距離を取った。

 

「ぎゃあああ! は、8時!? 早すぎない!?」

「僕が出るよ」


 エイトが半ば呆れた様子で、研究室の扉のキーを解除する。その間に美咲は、奥の部屋にツール一式を抱えて引っ込んでいった。


「おはよう、リュウ」

「エイトか。おはよう」

 

 冷静沈着な印象を与える端正な顔立ち。彼の髪は短く整えられ、ダークブラウンの色合いが知的な雰囲気を強調している。その瞳は深く濃い茶色で、常に何かを分析しているかのような鋭い光を宿している。


「美咲……じゃない。は?」

「今、奥で準備しているところ」


 エイトは嘘を吐かず、しかし真実を告げることなく応答した。人間に対して虚偽を言えるようにはできていないが、エイトは人間関係には真実のみを口にしない習性があることを理解していた。

 恋人であり、同僚でもある隆。彼は理論派の科学者で、美咲の情熱的なアプローチとは正反対のスタイルを持っている。なので、エイトの自然な受け答えとは違う部分で違和感を抱いた。


「昨日頼んでたもの、終わったか?」

 やや声を張って、美咲に声を掛ける。


「最後の確認だけさせて〜!」

 と美咲が返事をする。慌てている様子はまったく誤魔化せておらず、隆は溜め息をついた。


「リュウ。コーヒーでも飲む?」

「うん、貰おうか。……またアプデしたのか?」

「分かる? 感情区分の細分化と、EIIFのマイナーチェンジ。ほら、先週にエビス地区でデモ行進があったでしょ? その影響と世論に関する倫理バランスの調整……ってミサキは言ってたよ」

 隆はソファーに腰掛けながら、エイトをじっくりと見つめる。


「ということは……。アイツ、ついさっきデータ分析に取り掛かっただろう」

「何で分かったの?」

 

 コーヒーを差し出しながら、エイトは尋ねた。美咲とは違う泥水コーヒーではなく、ミルクを多めにしてある。隆はエイトに礼を述べつつ、猫舌を気にしてそっと口をつけた。


「エイトをそこまでアプデしてるってことは、どうせまた没頭したんだろう」

「正解! さすが、ミサキの彼氏だね」

 

 せっかく慎重に飲もうとしていたのに、エイトの思いがけない応答に火傷しかけた。隆の眉間の皺がぎゅっと深くなった。


「関係ない、それは」

「そう? もしかして……照れてる?」

「学習するな」


 なんとか隆は冷静さを保ち、コーヒーを何口か飲んだ。

 

「ミサキのどういうところが好き?」

「……美咲には言わないように」

「いいよ、約束する」

 

 隆は何度も言い淀んだ。科学者として、エイトが学習しようとするのを妨げるのは憚られる。しかし他意はなく質問しているに過ぎないはずの存在であっても、気恥ずかしさによって時間がかかる。


「情熱的なところ」


 ようやく言葉になったが、隆はそれきり黙ってしまった。

 じょうねつてきなところ。エイトは隆の言葉を繰り返した。見境なく研究に打ち込む性質は確かにそう言い変えることができるかもしれない。人間が《情熱》と呼び、時に不可解な行動動機を持つ部分は、エイトがまだ修めていない範囲であった。


 突如、イヤァァァァ! と甲高い美咲の声が響いたかと思うと、何かが勢いよく崩れる音が聞こえた。派手な音と何かに躓くような声。それらが順番に隆たちのいるフロアへ近づいてくる。彼女がひょこっと顔を出した。


「はい! 待たせちゃってごめんね!」


 美咲はエリア・ペーパーとして隆に引き渡す。隆はそれをエリア・ホログラムに投影し、内容を素早く確認していった。出来上がっているデータ分析は完璧なものだった。

 

「徹夜明けの1時間で仕上げるとは、さすがは天才だな」

「いやぁ、あっはっは! それほどでも……。あれ、なんでバレてんの……?」

「分からないとでも?」


 頭を掻いてバツが悪そうにする美咲を、隆はしばらく厳しい目つきで見つめていたが、眉間の力を緩めて微笑んだ。

 

「来月、忘れてないよな」

 ぼさぼさになった、美咲の栗毛色の髪をそっと梳かす。


「忘れるわけないよ! 隆とのご両親に会うの、楽しみにしてるんだから」

「そうか」


 隆は美咲の額に唇を寄せて、軽いキスをする。美咲にとっては思いもよらないタイミングでのスキンシップだった。


「ひゃあ!」


 美咲の顔はみるみる赤くなったが、何か仕返しをせねばと躍起になる。頬にキスしようと背伸びをしたが、隆はひょいと顔を向きを変えた。


「と、届かないぃ〜!」


 悔しそうにする表情に気を良くした隆は、美咲の頬を緩く摘む。


「所長には話しておくから、仮眠でもしておけ」

「ぬあぁ、ほっぺはやめろぉぉ!」


 大福と揶揄されながらこねくり回していると、腕時計から着信音が鳴った。予定のリマインドアラートの音声が響く。


「Calling! 朝森隆さん。MTG10分前です!」

「おっと、もう行かないとか。じゃあな」


 むにむにと感触を楽しむかのように軽く揉んで、隆は扉に近づいた。手のひらをキースキャンにかざし、解除する。


「エイト。コーヒーごちそうさま。また話をしよう」

「うん。またね」


 美咲は隆に何か声を掛けたり、憎まれ口も叩いたりせず、何なら普段欠かさなかった挨拶すら言えなかった。

 むくれたような表情にも見えるし、しかしそれが逆らえないとでも言いそうな顔をしている。エイトにとって、今の美咲の表情は理解が難しかった。


「ミサキ。リュウのどこが好き?」

「んぇ!?」


 エイトはその質問が最も謎を解くと結論付け、隆とは違う理由で同じことを聞いた。


「隆には言わない?」

「ミサキとの約束は守るよ」


 美咲は更に頬を紅潮させる。集まった熱を逃すためか両手で自らの頬を挟んだ。


「全然、敵わないところ!」


 かなわないところ。エイトは美咲の言葉を反復する。

 気恥ずかしさ、ちょっとした不満……。にも関わらず、美咲は幸福そうな表情を浮かべていた。エイトはその心情を完全に理解できなかったので、判断保留の項目へと区分けした。


「仮眠……した方がいいかなぁ」

 

 と美咲はぽつりとつぶやいた。彼女はあくびを噛み殺し、朝日が差し込む窓からの温かな日差しを浴びながら、ふわりとした疲労感に身を任せた。隆が退出したことにより、張り詰めていた緊張がゆっくりと緩んでいくのを感じていた。


「14時からミーティングだったよね。それなら食事込みで12時半くらいに起こしてあげるよ」

 

 エイトよ優しさに溢れる提案に、美咲は飛びつく。


「ありがとう、エイト……」


 美咲はお気に入りのソファーにゆっくりと身を沈めた。その動きは、どんよりとした疲れと、これからのほんの短い休息への期待に満ちていた。目を閉じると、彼女の頭の中は静かになってゆく。


「ふふふ、隆め……。おかあさんに言いつけてやるぅ……」

 

 怪しいつぶやきはやがて寝息となり、彼女はゆったりとしたリズムで安らかに眠りに落ちていった。研究室の静寂の中で、彼女の穏やかな呼吸だけが小さく響き、エイトはその場で静かに見守り続けた。


 彼女の疲れた表情は、徐々にリラックスしたものに変わり、美咲は心地よい仮眠の中へと深く沈んでいった。

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