第3話 平穏を脅かす者
「はふぅ……しあわせぇ……」
湯船に体を沈めながら、ローズは恍惚とした表情を浮かべた。
新居での初入浴。
宮廷魔術師としての勤務が長すぎて、中々ゆっくり湯船に浸かる暇もなかった彼女にとって、この状況は幸福以外の何物でもなかった。
「この後普通にベッドで寝られるなんて信じられない……明日は昼まで寝ちゃおうかな。昼頃起きて、薬草を採りに行くのもアリね。はー、時間があるって最高!」
大きな湯船の中で、ローズはパシャパシャと足を動かす。
普段宮廷魔術師として威厳ある姿を見せていた彼女は、もうどこにもいない。
ここにいるのは、湯船ではしゃぐ、ただの十代の少女だった。
浴室を出たローズは、そのまま寝室へと向かう。
「やっぱり明日は薬草集めかなぁ」
もぞもぞとベッドに入りながら、ローズは自身の口角が上がっていることを自覚した。
楽しい明日を想うと、どうしてもテンションが上がってしまう。
宮廷魔術師だった時も、もちろん休日はゼロではなかった。
しかしほとんどは日々の疲れを癒すための睡眠に当てられてしまい、ろくに休日を満喫したことがなかったのだ。
「テラスで紅茶を淹れるのもいいし……料理を極めるのもいいわね……あとは読めなかった魔術書たちも読み漁って……それから――――」
明日のことを考えているうちに、彼女の意識は眠りの世界へと落ちていった。
◇◆◇
「さすがは辺境の地。薬草も採り放題ね!」
翌日、ローズは森の中を楽しげに歩いていた。
木の根元や、水辺の近く。
そう言ったところに群生している薬草たちを、手で摘んでは自前のカゴに入れる。
これらはすべて、肉体の治癒能力を高める『ポーション』の材料だ。
一般的に見られる薬草、『ポーリー草』と、魔術によって不純物を取り除いた水。それらを混ぜ合わせながら、回復効果を高めるために調合者の魔力を注ぎ込むことで、ポーションは完成する。
ポーション調合は一種の錬金術。
ポーリー草を使うのであれば、使用する水の量、注ぐ魔力も決まった分量にしなければならないため、少なくとも魔力の扱いが下手な人間にはできない芸当だ。
もちろん、それらはすべてローズにとっては造作もないことである。
「野草も採っておこうかな……高い買い物だったけど、『魔冷蔵庫』があれば日持ちは気にしなくていいもんね」
『魔冷蔵庫』とは、魔力を用いて内部の食材を冷却、殺菌することで、腐敗スピードを何百分の一に抑える魔道具である。
魔力を燃料として動く魔道具たちは、どれもこれも便利で生活を豊かにする物だ。
性能によって値段は変化するが、ローズは貯めた貯金をふんだんに使って、家の中に最高級の魔道具たちを設置している。
魔道具だけでも、おそらく三千万ゴールドほどの金額が飛んでいることだろう。
一時間ほど散歩がてら周辺を探索し、薬草と野草を集めていたローズ。
カゴはすでに緑で山盛りになっており、これ以上採取すれば上からこぼれ落ちてしまうことだろう。
「さすがにそろそろ帰ろっと。ちょっと汗もかいちゃったし」
ローズはこの後の入浴を何よりも楽しみにしていた。
魔道具で温めた湯船に入浴剤を入れて、長い時間浸かる。
そういったゆったりとした時間を過ごすことに、ローズは強い憧れを抱いていた。
一度楽しんだ程度では、到底満たされるはずもない。
「~♪」
鼻歌を歌いながら、木漏れ日で満ちた森の中を優雅に歩く。
ローズは今、自分を包む最大級の幸福を謳歌していた。
故に――――その光景を見た時、ローズの思考は五秒ほどフリーズした。
『ぐおぉぉぉおおおお!』
「……は?」
そこにいたのは、愛しの我が家の屋根に噛みつく巨大な熊の魔物だった。
『ギガントベア』。
その巨体と鋭い爪、さらには岩石すらも噛み砕く頑丈な顎。
敵と見なせばどんな相手にも襲い掛かる獰猛さ。
他者を容易く蹂躙する力と、圧倒的な狂暴性から、ギガントベアは一級の魔物として登録されていた。
そこら辺にいる魔術師や冒険者では、まったく歯が立たない危険生物である。
そんな化物が今、ローズの新居に襲い掛かっていた。
「――――何しとんじゃこの熊やろぉぉぉおお!」
状況を飲み込んだローズは、ギガントベアに向けて駆け出していた。
その目に宿すは、明確な殺意。
あの家は自身の平穏の為に必要な、自分だけの城。
平穏を脅かす者を、ローズは決して許さない。
「まだ二日目だってのに……! 屋根に穴が開いちゃってるじゃないのよぉぉぉぉ!」
『ぐおぉぉぉお!』
ギガントベアがローズに気づく。
動かない標的よりも、動く標的に意識が寄せられるのは当然。
標的を変えたギガントベアは、ローズに向かってかぎ爪のついた腕を振り上げる。
「っ!」
ローズは地面を蹴って、ギガントベアと同じ目線まで跳び上がる。
二階建ての建物と同等の高さから振り下ろされた一撃は、彼女がいた地面を大きく抉った。
「土地まで荒らして……! ふざけんなっ!」
一発ぶん殴ってやらないと気が済まない。
そんな思いを込めて、ローズは拳を振り上げる。
「“魔力強化”――――」
ローズの右腕に、オーラが集まる。
魔力強化は、文字通り魔力を対象に流し込むことで、耐久力や攻撃力を強化する技術。
魔術とはまた別の技術であり、ランクの高い魔術師や冒険者であれば、十中八九これを習得している。
故にその強化幅は、使用者の練度に左右されるわけで――――。
「うおらァ!」
『ごっ……』
ローズの拳が、ギガントベアの顔に命中する。
その一撃だけで、ギガントベアは大きく仰け反り、尻もちをつくように地面に倒れた。
ローズの魔力強化は、もちろん達人クラス。
どれだけ華奢で貧弱に見えても、彼女の拳は、巨岩を砕くほどの威力を持つのだ。
「チッ、もうちょっと強く殴ればよかった」
『ぐ……おおぉぉ』
ギガントベアが体を起こす。
その顔は、ローズの拳が命中した部分を中心に大きく歪んでいた。
自慢の牙はほとんど砕け、ぼたぼたと血が流れている。
それでもなお、ギガントベアの闘争心は衰えていなかった。
「まあいいけど。うちの屋根を壊したあんたは、もっといたぶってやらないと気が済まないから」
『ぐおぉぉぉぉ!』
怒りを瞳に宿し、ギガントベアがローズに襲い掛かる。
ローズはその鋭い眼光を敵に向けながら、人差し指を天に向けた。
「“
指の先に花弁を
そしてローズはその指を弾くようにして、集めた炎をギガントベアへと放った。
『ぐ……おおおおおおぉおぉぉぉおおおっ!』
炎の塊はギガントベアに着弾し、一気に全身を包み上げる。
体を焼かれる痛みは、想像を絶するもの。
ギガントベアは悶え苦しみ、絶叫する。
ローズのオリジナル魔術、“
その魔術は、通常の炎を大きく超えた火力で対象を焼き尽くす。
彼女の炎に焼かれた者は、灰すら残らず消滅する。
そして熱を残した紅き火の粉だけが辺りに散らばることから、彼女は『真紅の庭師』と呼ばれていた。
「私の家を壊した罰よ。精々苦しんで死になさい」
『ぐお……おお……』
悶えていたギガントベアも、やがて動かなくなる。
そしてその体はローズの炎によって崩壊、消滅し、紅き火の粉となって辺りに散らばった。
ローズが「ふっ」と息を吐けば、火の粉はすべて無に帰した。
魔術によって発生した炎は、術師の質が高ければ自由に操れる。
燃え移らないようにしたり、その場で消すのはお手の物だ。
「討伐したはいいものの……どうしよう、これ」
新居を見上げ、ローズは途方に暮れる。
二階の一部、寝室に当たる部分の壁と屋根が、大きく壊れてしまっていた。
他の部分はかろうじて無事なようだが、しばらくあの部屋で寝泊まりすることはできないだろう。
ローズの理想の隠居生活は、二日目にして大きく脅かされるのであった――――。
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『あとがき』
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