第48話 人間 vs 妖怪⑬

「え……?」

「忘れることだ」


 たぬき先生はぼくにおでこをくっつけ、目と鼻の先でにっこりと笑った。


「忘れよう。どうせ遠く離れた、地獄の底別の場所で起こってることだ。気にすることないじゃないか。全部見て見ぬふりをして、なかったことにしよう」

「……でも」

「良いじゃない。戦争のことなんて気にしないで、自分のことだけ考えて平和に生きようよ。お父さんお母さんが待ってるよ。友達とも遊びたいだろ? 臭いものには蓋をして、悪いことはぱあっと忘れて楽しもうよ」 

「でも……それじゃあ」


 ぼくはいつかのコックリさんの言葉を思い出していた。


 ……誰も存在すら覚えていない……忘れ去られた怪異の末路は、死よりも恐ろしい。骨も残らぬ。消滅じゃ。誰の記憶からも消え去ってしまうのじゃ……


 コックリさんは、忘れられると消滅してしまう……。


。戦う相手がいないんだから、当然だろう? 妖怪がいなくなれば、少なくとも今の世界は救われる。ここにいる子供たちも全員助かる。どうする?」


 たぬき先生がぱん、と手を叩くと、それまでの一斉射撃が嘘みたいにピタリと止んだ。その間にもコックリさんは黒い影を作り続け、気がつくとぼくは、今度は大勢の妖怪に取り囲まれていた。蠍男や蛇人間の姿が見えた。天邪鬼に枕返し、のっぺらぼうもいる。みな遠巻きにこちらを見つめ、かごめかごめが始まった。


「これを……」

 輪の中心で、先生がポケットに手を突っ込み、ぼくに小瓶を投げてよこした。


「これは?」

狸伝膏ばけものこうと呼ばれる、たぬきの里に伝わる秘伝の薬だよ。それを飲めば、君は妖怪のことを綺麗さっぱり忘れられる」

「…………」

「知っての通り此処は地獄の最下層、全てを飲み込む『無』の空間だ。それを利用して……まぁ難しいことはともかく、要するにそうなるよう調合したんだ」

「…………」

「君だけじゃない。ここにいる子供達からも、世界中の人間から妖怪の記憶が消える。つまり君たちの世界から妖怪が消えるんだ。地上で暴れている化け物たちも、全部消滅するよ」


 こうして戦争は終わる。人類は妖怪モンスターに勝利する。

 めでたしめでたしハッピーエンドだ。先生はそう云ってほほ笑んだ。

 ぼくはごくりと生唾を飲み込み、足元に転がった小瓶を見つめた。中身は茶色い、たぬき色をした液体だった。


「それとも君は、これ以上犠牲者を増やしてでも戦うのかい?」

 おでこに冷たいものが当たった。

 銃口だった。

 先生はぼくの額に銃を突きつけながら目を細めた。


「さぁ選べよ。君の一言で何十万、何百万の命が吹き飛ぶけど、気にするな。戦うか、戦わないのか。人間か、妖怪か。大きい犠牲者つづらか小さい犠牲者つづら、君の好きな方を選べば良い」

「で、でも……」

「安心して。それは本物だよ。地獄ここまで来て騙したりしないから」

「でも、そうしたら、たぬき先生もいなくなっちゃうんじゃ……?」

 何云ってるんだい、と先生は苦笑した。


「僕はれっきとした人間じゃないか。人を妖怪扱いするなんて、全く酷い子だなぁ」


 その時だった。

 青い閃光が闇に迸る。躯中のチューブを引き千切りながら、突如コックリさんが鬼火の中から飛び出してきた。コックリさんは巨きな、白い狐の姿になり、咆哮を上げてたぬき先生に飛びかかって行った。


 先生が引き金を引く前に……ぱん、と両手を叩いて操る前に……コックリさんが鋭い牙でその腕に喰らいつく。生徒たちは動けない。その間に枕返しが、みんなを夢の世界へといざなった。手負いのコックリさんが、口元から赤い血を流してニヤリと嗤った。


「抜かったな!」

「冗談……」

 それでも先生は苦笑を絶やさずに、落ち着いて胸ポケットから退魔の矢を取り出した。


「わざと隙を見せたんだよ。確実に、化け狐を葬り去れるように!」

 たぬき先生がコックリさんの胸元めがけて、心臓をずぶりと矢で貫いた。

「がぁあっ!」

「コックリさん!」


 だけどコックリさんは勢いを失わなかった。そのまま先生を押し倒し、そのまま二人は倒れ込み、しばらくもつれ合った。


「無駄じゃ! タヌ公!」

「この女狐め!」

 先生も次第に人間の姿が保てなくなってきた。

「貴様が私をこのような姿にしたのだ!」

 今は先生の顔にはたぬきのような耳や尻尾が生えていた。目の縁を隈取りのように黒く染め、グリグリと矢を押し込んでいく。ブシュッ、ブシュッ、と真っ赤な血が溢れ出る。一方でコックリさんも、たぬき先生の首筋に思い切り噛みついた。


「良くもこの私を、醜い妖怪のような姿に! 貴様のせいだ、貴様のせいで何もかも……」

「フフン! 何もかも全て誰かのせいにするその腐った根性は、千年経っても変わらんかったようじゃのう、小童!」

「黙れ! この時を待っていた! 力を使い果たし、自暴自棄になったこの時を!」」


 お互い目と鼻をくっつけて睨み合い、噛みつき、引っ掻き合い、2人分の血飛沫が噴水のように高く舞った。しばらくは互角に見えた。だけど、やはり長い間捕えられ、弱り切っていたコックリさんは、やがて先生に馬乗りにされ、今度は逆に押さえ付けられてしまった。


「ぐぅ……!」

「さぁ、悠介くん、狸伝膏その薬をこっちに持ってくるんだ」


 血と汗に塗れた先生が、ぱん、と手を叩いた。

 すると、ぼくの体がぎこちなく動き出した。小瓶を手に取り、ゆっくりゆっくりと2人の元へと歩み始める。


「まずはこの化け物狐を始末してしまおう」

 激しく肩で息をしながら、先生が勝ち誇った顔で嗤った。


「神の時代は終わった。これからは人の時代だ。どうやら無に還る刻が来たようだな、この化け物め。所詮貴様には存在意義などなかった。貴様がいなくなっても、世界中の人々は何一つ困らずに明日も生きて行くだろうよ……」

「うぅ……!」

「……そして我々はこの戦争で、怪物に勝利したという大義を得る。いつの時代もそうだ。人間はいつだって困難に立ち向かい、戦い、そして勝利する! やはり人間は強い! 人間は美しい! 破破破破破! この勝利を通して、戦争を通して、我々人類は存在意義を得……」


 ぼくは先生の口に狸伝膏ばけものこうを放り込んだ。


「あが……!?」

「化け物だよ……」

 ぼくはたぬき先生を心から憐れんだ。先生は目を丸くした。

「どうして……戦ってる人も、戦ってない人も、みんな戦争を止めようとしているのに」

「あがが……どうして……?」

「そうやって戦争を煽って……先生が一番の化け物じゃないか!」

「どうして……私の術が?」


 蜘蛛に耳はない。正確には、足にある感覚器官で音を聞き分けているのだけれど……何てことはない。ぼくァ単純に、長々としたお説教は嫌いなのだ。大義がどうとか、存在意義がどうとか、心底どうでも良かった。


「存在意義がないと生きてちゃダメ?」

「何……?」

「ぼくは……意義なんてなくても、コックリさんには……みんなには……生きてて欲しいよ」

「ぐ……!」


 薬が回ってきた先生は、そのままぽん、と音を立て、やがて一匹のたぬきに戻ってしまった。

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