第43話 人間 vs 妖怪⑨

 ふわふわと宙に浮くような感覚……だけど実際は、ぼくの体はずぶりずぶりと泥の中に沈み始めていた。三途の川が決壊して、ただ流されるままに身を任せている。そうするより他なかった。この激流の中では、ぼくの腕や足は一本の細い枯れ木よりも無力だった。


 ぼくが沈んで行くのを、ぼくは少し離れた、遠く上の方から眺めていた。ぼくの体が沈んで行く。ぼくの意識……あるいは心か、魂と呼ぶべきか、とにかくぼくの外側ではなく、内側を流動していたもの……は、体とは真逆に、ゆっくり、ゆっくりと浮上し始めていた。

 幽体離脱。

 自分の肉体から魂が抜け出て、生き霊のように外を彷徨う……そう言うものがあるとは知っていたが、だけど実際に体験するのはこれが初めてだった。曲がりなりにも此処は地獄だから、体の方がこの環境について行けなくなったのかも知れない。外側から見る自分の体は、カメラで撮った映像を覗き込んでいるようで、何だか自分じゃないような感じだった(もっとも、今や8本の手足が生え体は蜘蛛のようになったので、それも当然なのだが)。


 醜く変形した哀れなぼくの外側からだは、泥に塗れ、すぐに見失ってしまった。周囲は薄暗く、左右を見渡しても何も見えない。ごうごう、と地鳴りのような音が鼓膜を震わせる。今どこにいるのかさえ分からない。健太とも秀平とも、他の面々ともすっかりはぐれてしまった。


 迷子の魂になったぼくは、やがてと……排水口から放り出される捨てられた野菜みたいに……突然濁流から放り出された。眩しい! まるで懐中電灯を真正面から当てられたみたいに、まぶたの裏が急に真っ赤に染まった。薄暗がりの中から、いきなり光のシャワーを浴びせられて、ぼくは思わず目をつぶった。

『ぎゃあっ!?』

 背中が地面に付いた途端、ぼくはたちまち悲鳴を上げて飛び上がった。まるでお好み焼きを調理するフライパンのように、地面が熱を帯びていたのだ。


 背中から黒い煙を燻らせながら、あっ、とぼくは大声を上げそうになった。

 地面が、燃えていた。

 見渡す限り、炎、炎、炎。

 どこまでも限りなく続く地平線の彼方まで、地獄の業火が鰹節みたいに踊り狂っていた。世界が赤い。息をするだけで喉がヒリヒリと焼けて痛かった。ぼくは地獄の、どこかの階層にある、灼熱の炎が猛る地獄のひとつにたどり着いたのだった。


 幸い(地獄に堕ちてもないだろうが)、ぼくの魂はふわふわと空に浮かぶことができた。おかげで地面に足が着くことはなかったが、それでも四方からむわっと熱気が襲ってくる。このままではぼくは魂の天ぷらになってしまう……たちまちぼくは大汗を掻いた。魂にも汗線かんせんがあるのだなあ、などと思っていると、東の方から熱風が吹いてきて、再びぼくの脆い魂は流されて行った。


 鳥のように自由に飛ぶことなどできない。魂初心者のぼくは、ここでもただ流されるままに流されるしかなかった。こんなことで戦争が止められるのだろうか?


 どこを見ても紅蓮の炎がぐにゃぐにゃしていて、後はひび割れた地面ばっかりだった。不安にかられていると、急に黒黒とした建物が見えてきた。瓦屋根の、神社の門のような、古びた建物だ。もちろんその建物も火柱に包まれていた。


 ふわふわと、流される魂のまま、建物の中に吸い込まれた。中は畳張りで、思ったより広さがあった。何処かのお寺の講堂のような場所だった。眼下では、大勢の漢たちがぎゅうぎゅうに集まって、それぞれ鋭利な武器を手に怒鳴り合っていた。


「……弱い相手の云うことを誰が聞くだろうかッ!?」

 ウオォッ、と割れんばかりの鬨の声が上がり、刀が槍が、天井に向けて突き上げられる。ぼくは危うく魂の焼き鳥になりかけた。



 そうだそうだ、と熱狂を孕んだ声が幾重にも谺する。硬そうな鎧に身を包んだ漢の一人が力強く頷いた。ぼくは彼らの顔を覗き込んで、ゾッとした。骸骨だ。集まった鎧武者は、みな理科室にある模型ような骸骨人間だった。


「弱い者は強い者に絶対に逆らわない。武力こそ抑止力! 攻撃は最大の防御なり。平和を維持するにはそれなりの『power』が必要だ!」

『要するに力づくで相手に言うこと聞かせようってワケね』


 ぼくは今度こそあっ、と大声を上げた。知っている顔がいた。部屋の向こう、頭部の取れた仏像の首の部分に、花子さんがあぐらを掻いて座っていた。花子さんは『ピース』を咥え、紫煙を燻らせながら、バールのようなものでトントンと肩を叩いた。


……か』

「戦うぞ! 戦わないために!」

『ひひひ! 分かりやすくていいね!』


 花子さんがバールのようなもので、片手に持った仏像の首を木魚のように叩きながら嗤った。そのリズムに乗せられ、武装した髑髏たちが次第に士気を高めていく。此処は、何という地獄だろうか……?


『花子さーん!』


 ぼくは大声で叫んだが、花子さんには聞こえなかったようだ。幽霊にさえ聞こえないなんて、ぼくの魂はどれだけステージが低いのだろう? そのうち血気盛んな骨たちは、武器を構えて建物の外に飛び出して行った。ぼくも風に流され、再び虚空を漂い出した。


 どれくらい経っただろうか。

 地獄の時間が、現実と同じ長さとは限らないので、たった1秒だったような気もするし、もしかしたら永遠だったような気もする。

 とにかくぼくは今度もまたと……ワインから飛び出して行ったコルクのように……気がつくとまた別の地獄にたどり着いていた。


『ここは……』


 今度の地獄は、氷の世界だった。空は暗く、雲もなく、月も星も出ていない。なのに延々と、闇の向こうから白い氷の粒が五月雨のように降り注いでいる。この地獄は冷凍庫の中みたいにべらぼうに寒かった。当然地面は凍っていて、真っ白だ。


 此処にも生き物の気配はない。地獄白クマも、地獄ペンギンもいそうになかった。このままでは魂のかき氷になってしまう……遠くに逆さまの氷柱のような山が見えた。そのまま吹雪に巻き込まれて、ぼくの魂は流浪の旅(遭難に近い)を続けた。


 やがて白いピラミッドのような豪勢な建物が見えた。

 ぼくがもうちょっと勉強熱心だったら、それがナントカという歴史的な建造物に似ていると分かっただろう。壁や天井には何だかキラキラと宝石のような装飾が施され、とにかく立派な建物だった。もちろん、この建物ももれなく凍りついていたけれど。


「どんな人間だろうと、たちどころに言うことを聞く魔法をご存知かね?」


 中はこれまた広々としていて、喪服に身を包んだ老人たちが、ワイングラスを片手にソファでくつろいでいた。壁一面に飾られた、鹿の首や、熊の首、虎の、狼の、人間の……ハンティング・トロフィーが飾られていた。ただそのどれもが腐っている。トロフィーも、それから部屋の中にいる老人たちも、みな肉をドロドロに溶かし赤いカーペットの上に滴らせていた。青い鬼火のシャンデリアが揺れる下で、ゾンビの老人がぶっ太い葉巻を咥えて嗤った。


「金だよ。マネー。誰もが金にひれ伏す。男も女も、大人も子供も、みな金には逆らえない。? 金は相手を選ばない。誰も差別したりしない」

「世界を動かしているのは経済だよ、これからは経済戦争だ。金がなかったら食べ物も買えない。武器を買うのにだって金が必要だろうが。つまり平和は金で買えるということだ」

……ねえ」


 ソファの向かい側、肘掛け椅子で『ショートホープ』に火を着けたのは、他ならぬなまはげのオッサンであった。いつの間にか上等なスーツに、上等なカツラをこしらえていたオッサンは、胸元の肌けた美女ゾンビはべらせて満足そうに頷いた。


moneyが全て、か。 単純だが、しかし紛れもない真実だ」

「我々の投資に乗るかい? Mr.オッサン」

「そんな呼び方をされたのは生まれて初めて……いや死んで初めてだが……良いだろう」


 オッサンは足を組み直し、ニヤニヤと嗤った。この地獄は……


「面白そうだ。ケケケ。平和のために、未来のために、とりあえず中抜きの額から決めようじゃねえか……」


 それから何処からともなく吹雪いてきて、ぼくの魂は呆気なく小嵐こがらしに吹き飛ばされてしまった。


 そうして三番目の地獄に来た。

 三番目の地獄が、一番地獄っぽくなかった。暑くもない。寒くもない。ぽかぽかとした陽気が穏やかにぼくの魂を包み、柔かく微睡まどろみを誘った。眼下には色とりどりの花が芽吹いていて、青々とした空には、虹色の小鳥や、燦々とした太陽が浮かんでいた。一瞬、ぼくは間違えて天国に来てしまったかと思ったほどだった。


 嗚呼、だけど神様、ごめんなさい。

 ぼくは昔から平気で蟻を踏み潰して殺したり、健太や秀平といっしょに万引きをしていた、悪い人間です。小説は図書館で借ります。漫画はタダで立ち読みします。自転車に乗る時、ヘルメットも付けてません。世界平和のために、凶悪な敵と戦ったこともありません。ぼくは天国にはいけません……


 ……などと心配しないでも、ここは天国ではなかった。ここは、美しいものや正しいもの、清らかなものしか入れないと言う、超差別主義的排他地獄であった。


 やがて汚れひとつない、キラキラとした建物が近づいてきた。これも何処かの世界遺産を模したものなのだろうが、天国に行けない程度の頭脳しか持たないぼくには見当もつかない。あまりに綺麗すぎて、ここでガムをポイ捨てなどしようものなら殴り殺されるだろうな、と思った。


「平和とは話し合いで築くものです」


 建物の中に入ると、美男美女たちが美辞麗句を並べ立てていた。


「争いなどもってのほか。地獄から戦争を無くすのは、平和の使者に選ばれた我々なのです」

「そうですとも。我々は同じ人間じゃないですか。。決して戦ってはなりません」

「でも、相手が突然銃を突きつけてきたらどうするんですか?」


 聴衆の中から、これまた彫刻のような美少年が、一言一句違えず台本通りの質問をした。良く見るとみんな陶器のように白っぽい。まさか本当に銅像が歩いているわけではないだろうが……美男美女たちが天使のようにほほ笑んだ。


「良い子ね。言ったでしょう? それでも話し合うのよ。大切なのは相手を尊重し、尊敬respectし合うこと。銃口にお花を刺してあげましょう。美味しいものや、とびっきりのお酒を持って行ったら、どんな相手だってきっと素敵なお友達になれるわ」

「わぁ……!」


 その言葉をすっかり信じた清らかなる子供たちは、早速家に帰ってクッキーを焼いたり、お花を詰みに走った。やがて地平線の向こうから、血に飢えた亡者が攻めてくるのを、まるでサンタクロースみたいに待ち侘びて。

 その様子を側から見ていたこいしさんが、ほろほろと涙をこぼしながら泣き笑った。


『私、感動しました。……素晴らしいですね!』

「あなたも力を貸してくださる? この地獄から、戦争を無くすために」

『えぇ……ええ! ふふふ。私にできることなら、なんでも!』


 こいしさんは頬を紅潮させ、大切そうに『魔界への誘い』を抱き抱えた。


 どうやらみなバラバラに、それぞれの地獄へと流されて行ったらしい。

 3人とも、戦争を止めようとしているには変わりないようだが……果たしてそんなに上手く行くだろうか? 

 魂のステージが低いぼくには良く分からないが、でもここも、どこもかしこも、結局地獄には変わりないのだ。


 3人で協力すれば良いのに。ぼんやりとそんなことを思いながら、ぼくは魂の旅を続けた。

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