第42話 人間 vs 妖怪⑧

 逢魔時。


 空は血飛沫を浴びたかのように真紅に染まり、その下で、黒黒とした闇が地の底で蠢き始めていた。まず真っ先に闇の中から先陣を切ったのは、あれは牛鬼である。蜘蛛のように長く巨大な四肢をカタカタと軋ませ、地獄の釜が開くのを今か今かと待ち侘びていた警察や自衛隊の群れに向かって、嬉々として突っ込んで行った。東の方からたちまち悲鳴が上がる。


 西の空では、巨人族と大百足が早速取っ組み合いを始めていた。その巨きさと来たら。足元に聳える大山脈も、最早彼らの膝下ほどの高さでしかない。頭部は雲を突き抜け、その表情を確かめることは不可能だ。ただ、雷鳴のような怒号に混じり、空が割れんばかりの哄笑が五月雨のように降り注いでいる。人々はただ、彼らの足元で蟻のように逃げ惑い、神々の戯れに呆然とする他なかった。


 北の大地をドラゴンが焼き尽くし、南の海ではセイレーンたちが蠱惑の歌声で人々を死へと誘った。龍炎の中ではイフリートが不遜な笑みを浮かべ、美しき歌姫の周りでは、河童たちが下卑た嗤い声を響かせている。皆笑っていた。無力な人々が逃げ惑うのが、泣き叫ぶのが愉快でたまらない。百鬼夜行。スフィンクスが、狼男が、ダイダラボッチが、古今東西の妖怪たちによるパレードが今宵も幕を開けた。


『いいか? 陽が沈むまで時間がねえ』


 皆の顔を見回し、花子さんが低く唸った。肩には正義棒金属バットの代わりに、そこら辺で拾ったバールのようなものを担いでいる。正義の味方……というより、この顔を見たら110番と言った表情で、花子さんが全員を睨め付けた。


『主要な妖怪どもがに出払ってる今が勝負だ。その間、持って一時間かそこら……』

「わぁってるよ。話してる時間がもったいねえだろ。さっさと行くぞ」


 なまはげのオッサンが肩をすくめた。こちらもヘルメットにサングラスと、在りし日の学生運動みたいな出立ちをしている。まだ自分のことを若いと思っているのかも知れない。皆各々臨戦体制を整えていた。百鬼夜行が開催され、妖怪たちが留守している数時間。その間を狙ってぼくらは『蓋』の向こうに突入する計画だった。


 元々小学校があった場所は、今や瓦礫の山と化していた。面影もなくなった母校の片隅に、黒黒とした時空穴ポータルがぽっかりと開いていた。今や世界中で開かれつつある、異界と通じる通り穴。


 まるで地獄へと続くかのように、その奥は深く、闇に包まれ全貌は見えない。百鬼夜行の開催以来、軍隊やら政治家やら、とにかく屈強な男たちが幾度となく穴の中に突入して行ったが、しかし未だ帰ってきた者は一人もいなかった。

「う……」

 穴の周りには瘴気が漂っていた。得も言われぬ寒気に襲われ、ぼくは一瞬、足を踏み出すのをためらった。


『気をつけろよ。こっから先は地獄だぜ』

「ひぃ……!?」

「マジで行くのかよぉ!?」

『……あの、あまり無理しないでも』

「……行くよ」

『悠介さん……』


 まさかこの歳で地獄に行くことになるとは。少しだけ足が震える。息を止め、恐る恐る一歩踏み出した。途端につま先から、ひんやりとした冷気がまとわり付いてくる。中は灯りもなく、墨を溢したかのように真っ暗だった。音もない。今は闇の住人たちも出払っているのか、シン……と静まり返っている。足音や、呼吸の音ですら遠くまで響いて行きそうな、不気味な静けさだった。


 やがてぼくに続いて、一人一人慎重にこちらにやってきた。こいしさんが青白く燃える鬼火を出してくれた。しばらく呼吸を我慢していたので、口を開けると一気に肺の中に冷気が流れ込んできた。目を擦り、周囲を見回す。ここが地獄……薄暗い洞窟の中のような、白い霧がかかった、なんとも殺風景な場所だった。


『ここからしばらく歩くことになります』


 元・死神のこいしさんが先頭に立ってあの世を案内してくれた。ぼくらはパック旅行の観光客みたいに一列になって歩き始めた。健太や秀平などは、さっきからしきりにスマホで写真を撮っている。マナーの悪い奴は、地獄に堕ちてもマナーが悪い。


「ライブ配信も試したんだけど、さすがに電波が届かないなぁ」

「世界初! あの世から生中継になったのにな。俺たち一躍有名人になれたのに」

「やめなよ、怒られるよ。地獄に堕ちたらどうするんだよ」

「もう堕ちてるんだから気にすることないだろ」

「そうだよ。これ以上堕ちるってことはないんだから。せっかくだから楽しもうぜ」

『えぇと……宗教によっても違いますが、仏教では、地獄は大体八層くらいあって』

 浮かれていた餓鬼どもをこいしさんが全否定した。


『それぞれ生前に犯した罪の程度によって、堕ちる地獄が違うのです。殺生をしたら【等活地獄】、さらに盗みを働いたらその下の【黒縄地獄】……』

「じゃ、まだ下には下があるの!?」

「なんか……人生みたいだな」

『一番最下層は、【阿鼻地獄】……【無間地獄】とも言って、此処に辿り着くには真っ逆さまに落ち続けて2000年かかるそうです』

「2000年!? 死んじゃう!」

「だからもう死んでるんだって」

「おい悠介、お前!?」

「え?」


 振り返ると、健太と秀平が目を丸くしてぼくをじろじろ見ていた。ぼくは思わず自分の体を見下ろした。するとどうだろう。いつの間にか、腕から足から、黒黒とした毛が生えてきているではないか。それだけではない。さっきから何かむず痒いと思っていたら、なんと新しい手足が、きのこみたいにニョキニョキと生え始めていた。


「お前……それ、蜘蛛だよ! 蜘蛛になりかかってる」

 蠍人間と蛇男が吃驚してぼくを覗き込んだ。

 どうやらぼくの体にも妖気の影響が出始めたらしい。


「それでか……通りでさっきから、見えすぎるというか、目が八つあるような気がしてたんだ」

「ちくしょう。何でお前だけちょっとアメイジングなんだよ。ずるいぞ」

『見てください、あれ』

 浮かれている餓鬼どもを無視して、こいしさんが前方を指さした。


 しばらく歩いているうちに景色は変わり、前方に海が見え始めていた。暗かった視界も進むにつれ徐々に明るさを取り戻し、黄緑のような若草色のような、混ぜるのに失敗した絵の具みたいなどんよりとした空が頭上に浮かんでいた。


「海……?」

『いや……あれは河だ。三途の川』

 花子さんがひひひ、と嗤った。

「三途の川!?」

「聞いたことある!」


 確かこの世とあの世を結ぶ境目に流れている川だ。ここを渡るといよいよ本格的に死ぬことになる……ぼくらは息を飲んだ。恐る恐る川縁に近づいてみる。泥水のように濁った河は、まるで海のように広かった。波はなく、荒れてはいなかったが、時々風が冷たい水飛沫を運んできた。カラスみたいな黒いカモメに似た何かが、ゲェゲェと遠くの空で旋回している。


「でも……どうするの?」


 見たところ、橋のようなものも、船もない。お土産屋さんもない。これではお土産を買って引き返す訳にもいかなかった。


「普段なら渡し守がそこら辺にいるんだがな。百鬼夜行で忙しいんだろ」

 なまはげのオッサンが紫煙を燻らせながら目を細めた。


「これじゃ向こうに渡れないよ」

「まさか泳いで渡れって言うのかよ? 無理だろ。俺、そこまで頑張って死にたくないよ」

『待ってください。今の私なら……』

「こいしさん?」


 ぼくらが途方に暮れていると、こいしさんが川縁に立って両手を広げた。

『はぁっ!』


 ただの神になったこいしさんが、空に向かって気合を入れる。するとどうだろう。なんと、河がゆっくりゆっくりと左右に別れ始め、目の前に道が出来ていくではないか。


「おぉ……!」

「すごい……モーゼみたい」

「さすがただの神」

「三途の川って、割って良いのか?」

『今のうちに、早く!』


 こいしさんが汗だくになりながらぼくらを促した。ぼくらは三途の川を歩いて渡った。割ってもらっといて何だが、三途の川の底は、ヌメヌメと濡れそぼっていて、非常に歩きにくかった。ところどころ人骨だったり、頭蓋骨が落ちていて薄気味悪い。崖のように切り立った水面に、時々巨大な怪魚や人面魚が顔を覗かせて、ぼくらを驚かせた。だけど、地面が露になったこちらまではやって来られないようだった。もし泳いで渡ろうとしていたら、今頃どうなっていたか。ぼくは胸を撫で下ろした。


「待て! テメェら!」

「ん?」


 どれくらい歩いただろうか。そろそろ休憩にしよう、と言うことで川の真ん中で持ってきたお弁当を広げていると、頭上からがなり声が降り注いできた。見上げると、緑色の肌の河童みたいな生物が、こちらを見下ろして何やら怒っている。


「待ちやがれ! テメー、誰の許可を得て川を渡ってんだ!?」

『誰だあいつ?』

「うわぁ、河童だ!」

「おいらぁここの渡し守やってんのよ!」


 河童が船の上から吠えた。


「それで?」

「テメーら何勝手なことしてんだよ! あまつさえ弁当まで。ピクニック気分で死んでんじゃねぇぞ! 三途の川を渡りたいなら、ちゃんと金払え!」

「金かかんの? いくら?」

「7500円」

「高えよ!」


 なまはげのオッサンがおにぎりを頬張りながら早速難癖つけ始めた。


「ぼったくりじゃねえか。誰が逝くか、そんな額で。7500円も取られるくらいなら、生きてた方がマシだわ」

「は! 今時ただで死ねると思うな。入場料くらい払え。地獄の沙汰も金次第なんだよ!」

「小学生は無料じゃないの?」

『私たち夜中に死んだからさぁ、夜間割引で半額にしてくんない? 3700円くらい』

「ダメだダメだ! 貧乏人が地獄に来るんじゃねえ! 此処は金持ちのための未来ショバなんだよ。払えねえってンなら……」


 河童が長いオールを刀みたいにして頭上に掲げた。すると、ゴゴゴ……と何処からともなく地鳴りがして、地面が小刻みに揺れ始めた。


「此処で死にやがれぇえッ!」

「どっちだよ!?」

「うわぁあああっ!?」

『きゃああああっ!?』


 次の瞬間。ぼくらはあっという間に三途の川の高波に飲み込まれてしまった。

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