第22話 死神 vs コンプライアンス④

 寝る前から、何だか嫌な予感がしていた。


 夜中にトイレに行かずに済むように、出来るだけ飲み物は飲まないようにしていたが、その日は朝からお腹の調子が悪かった。案の定、4時半ごろにふと目が覚めてしまったぼくは、ぐるぐると鳴り出したお腹の音を聞いて、泣き出しそうになった。


 無理やり目を閉じて寝返りを打つ。

 あの日以来、花子さんはやってこない。ぼくの周りは静かなものだったが、それが逆に不気味だった。とにかく人を怖がらせたり、驚かせたりするのが大好きな、典型的で好戦的な幽霊なのだ。彼女が諦めるとも思えない。油断させといて急に襲ってくるんじゃないかと、ぼくはずっとビクビクしていた。


 死神のこいしさんとも、あの日以来逃げ別れたままだ。どこに行ってしまったのか気になったが、彼女もまたコックリさんに騙されて裁判をさせられたようなものなので、妙な恨みを買っているんじゃないかと思うと、気が気ではなかった。


 またお腹の辺りがゴロゴロ言い出して、ぼくはとうとう観念した。そろりとベッドから抜け出し、足音を立てないようにしてトイレへと向かう。窓の外では、蛙の大合唱がそろそろグランド・フィナーレを迎え、代わりに得体の知れない鳥の鳴き声が不気味に響き渡っていた。


『……ク』


 角を曲がりかけたところで、ぼくは思わず立ち止まった。もうトイレは目の前だ。だけど、ふとかすかに、女の人の話し声が……泣き声が聞こえたような気がしたのだ。ぼくは心臓を鷲掴みされたような気分になって、その場で凍りついた。


『……シクシク』


 壁際からそっと顔半分を出し、向こうの様子をうかがう。泣いていたのはこいしさんだった。床に体操座りをして、頭を抱えている。トイレの扉は開けっぱなしになっていた。

『……わぁったからからもう泣くんじゃねぇよ、ったく』

 それからもう一人。扉の中で、壁に寄りかかりながら腕を組み、花子さんがイライラとした表情で煙草を吸っていた。ぼくは震え上がった。


『ただアイツを殺すだけだろ?』

『でも、私……そんなの』

『んだよ?』

『コンプライアンスが……』

『だぁぁ、もうっ!』


 花子さんが壁にぐりぐりと煙草を押し当てて火を消した。人の家を何だと思っているんだ、この幽霊は。こんな心霊現象は嫌だ。


『なぁにがコンプライアンスだよ。んなモンにビビってんじゃねえ。大体何で幽霊や死神が、人間のコンプライアンスに付き合ってやらなきゃいけないワケ?』

『え……』

『幽霊には幽霊のルールがあるんだから……サ。そもそも炎上したいなら、もっと有名になって実績残さないと。お前みたいに何にも油乗ってない奴に火ィ点けたって、燃えるわけねぇだろう』

『え、炎上したい……!? 私が!?』

 こいしさんは慌てて首をブンブン振った。


『ち、違います! 私炎上なんてしたくありませんっ! 波風立てず、日々平穏無事に暮らせればそれで……穏やかに。無駄な殺生はしない、平和が一番なんです』

『どんな死神だ』

『とにかく私、傷つくのも傷つけるのも苦手だし、怖いんです。コンプライアンスが……』

『あのなァ。お前も良い加減念仏みたいにコンプラコンプラ唱えるのやめろ。そんなんじゃ誰も救えやしねぇよ。たとえば世の中には「がんばれ」の一言で傷つく奴もいるって噂だ。だけど「がんばれ」って言ってる奴は、傷付けるつもりなんて微塵も無いんだぜ。そっちの方が怖くないか?』

「…………』

『それなのに「私は誰も傷付けてません」なんてどうして言える? 優しい言葉だって案外……同情されて情けなくなったこと無いか? 柔らかい言葉だって案外人を傷付けるんだよ』


 2本目の煙草に火を点ける。白い煙が冷気のように床に広がった。


『だから自分は誰も傷付けてないなんて幻想は捨てろ。誰だって生きてる限り傷付くし傷付ける。コンプラ教信者のお前だってな』

『私は……そんなつもりは……!』

『いいか? 外科医は手術の時まず何をする? メスで皮膚を切り裂くんだ。どんなに優しく撫でたって傷は付くんだよ。別に傷付けろって言ってんじゃない、刃を持ってる自覚を持てって言ってんだ。何せ私たちゃ、相手の心臓掴みに行くんだからなァ』

『し、心臓を……掴みに行く……!?』

『そうだ。それが幽霊わたしたちの仕事だろうが』

『そ、それってつまり』


 こいしさんがようやく顔を上げた。すでに頬を伝う涙は枯れ、目にはキラキラと輝きを取り戻している。ぼくは妙な胸騒ぎに襲われた。


『相手のを掴みに行くと……そう言いたいんですね!?』

『うん? うん、まぁ……そういうことだよ』

『じゃ、じゃあもしかして、こ、殺すというのは、命を奪うという直接的な意味ではなく……外科医のように相手の悪い部分を治すという……そういう暗喩メタファーだったんですか!?』

『そういうことだ』


 何が『そういうこと』だよ! 

 騙されちゃダメだ、こいしさん! こいしさんの人の良さに乗っかってるけど、花子さんはただ、血を見るのが好きなだけなんだから!


『私……私、ようやく分かった気がします。死神わたしの存在意義が……』


 こいしさんは立ち上がり、再び涙を流した。だが今度は哀しみに暮れた表情ではなく、穏やかな笑みを携えていた。何だか吹っ切れたような、そんな涙だ。


『私……私も掴めるでしょうか? 悠介さんの心臓を』

『掴もうぜ』

 やめてくれ。そんな、夢や希望みたいに、人の心臓を掴まないでくれ。

『こ、殺せるでしょうか? 私にも……悠介さんを』

『殺せるさ。お前は私に憧れてこの世界に入ったんだろう?』

『別にそういう訳じゃ……』

『まぁいい。そのうち惚れさす。私の背中を見て、必死について来い。私がお前を、立派な死神にしてやるよ』

『……はいっ!』


 こいしさんが涙を拭い、それから両手で、何やら長い筒状のものを拾い上げた。ぼくは思わず声を上げそうになった。それは、ぼくの身長ほどの大きさはあろうかという、巨大な鎌だった。


『オーシ殺るぞ死神女ッ! ソイツであの餓鬼の首根っこを掻き切ってやれッ!』

『首根っこを掻き切るとは……つまり「頭でっかちになっている少年の迷いや悩みを断ち切って、進むべき未来に道を指し示す」という、その暗喩メタファーなんですね姐さんっ!』

『そうだッ! 良く分からんがその通りだ、ひーっひっひひひ!』


 ダメだ。あまりにお人好し過ぎて、どんなものからも必死に良い部分を拾い上げようとしている。もしかしたら花子さんは、鬼に金棒を手に入れてしまったのかもしれない。これから花子さんがどんな悪事を働いても、こいしさんがアクロバティック暗喩メタファーで正当化してしまうのだ。


訃訃訃訃訃ふふふふふ……』

緋緋緋緋緋ひひひひひ……』


 暗闇の中で銀色の刃がギラリと輝いて、ぼくはとうとう気絶した。

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