第155話覚悟を決める前田
紫陽花寺から帰って来た俺達。短い散歩の時間だったが、また一つ、乙成との距離が近くなれた気がする。
夕飯は各部屋ごとではなく建物内にある宴会用の広いスペースに通された。俺達の他にいたのは中年の夫婦くらいなもので、この時期は閑散期であると言っていた受付のおばちゃんの言葉を思い出し納得してしまった。
「ッッカァーーーーー! やっぱりひと眠りしたあとのビールは格別ね!」
俺達と別れた後、滝口さん達はほろ酔い気分でそのまま昼寝していたらしい。そして起き抜けにビール大ジョッキである。俺はこの人達の将来が心配だ。
「あれからなんともなかったです? 変な声とか……」
乙成の問いかけに、すっかり忘れていたここの
「なーんにも! あれから変な声なんか聞こえないし、不気味な雰囲気も全然しないから、蕎麦屋のおばちゃんの嘘っぱちだったのね〜」
「なあんだ! それなら良かったです!」
お化けなんていないと知って安堵の表情を浮かべる乙成。俺は紫陽花寺から帰った頃から妙にソワソワと落ち着かない。
それは何故か。断じてお化けのせいではない。
暗くなってきたから妙に現実味か増しただけだ。
どどど、どうしよう……乙成と一晩明かすんだよな?
え、普通に風呂入って寝るのはなし? ないよな……てか、布団とかどうなってんの? まさか一枚?! 一緒の布団で寝たりするのかな? そんな……心の準備が出来てないよお……
そうこうしている内に、夕飯を食べ終わって各自風呂へ向かう。ここの保養所は部屋にもシャワーがついているが大浴場もある。まだちょっと酔っている滝口さんを引き連れて風呂に入るのは大変だった。ほっといたら湯船で寝てしまいそうで……いっその事、そのまま沈めても良かったのだが、それでは流石に目覚めが悪い。ここの
なんやかんやあって、風呂から出た俺達。野郎の風呂の描写なんか誰も知りたくないと思うので、ここは詳しく説明はしない。とりあえず滝口さんは鬱陶しいし、不自然な場所に石鹸が落ちてて危うく転びかけたくらいだ。これも怪奇現象の一つ? いや、あり得ないな。多分掃除の時に誤って転がしたんだろう。
ほっかほかの状態で風呂から上がった俺達。男性用に甚兵衛を用意してもらったので、だいぶ快適だ。確か女性は浴衣だったよな……
「前田さん!」
ダラダラ歩く滝口さんを支えながら男湯から出てきた所で、俺達より先に出てきていた乙成と朝霧さんに鉢合わせした。朝霧さんは廊下に面した窓の前に置かれたマッサージチェアに座ってくつろいでて、乙成は浴衣姿でコーヒー牛乳片手にソファに座っていた。
「コーヒー牛乳まであるんだ」
グダる滝口さんをとりあえず座らせて、俺も乙成の隣に座る。朝霧さんが滝口さんに、酔い過ぎだなんだとごちゃごちゃ言っていたが、今はそんな事どうだっていい。なんせ今、目の前の乙成は浴衣姿なんだからな。
「はい! なんかサービスだそうですよ! ここやっぱり良いですね! ご飯も美味しかったし、お風呂も素敵でした!」
湯上がりで少し上気した頬。ちょっと顔色が悪いので分かりにくいが、普段よりずっと艶っぽい。長い髪を後ろでまとめているので、普段は見る事のないうなじがしっかりと確認出来る。ほっそりとしたその首元にうっかり見惚れていたら、少し照れくさそうにはにかむ乙成と目が合った。
「お、俺もコーヒー牛乳貰ってくる!」
堪らず適当な言い訳をしてその場を離れる俺。なんでこんなにドキドキするんだろうか。いつも会っているというのに。
え……これヤバいかもな。この後部屋に戻るんだろ? 耐えられる気がしないのだが。
乙成は今、何を考えているのだろうか。俺と同じ様にドキドキとかしているのだろうか……。
覚悟を……覚悟を決めないとだよな。俺は、ご自由にどうぞと書かれた小さな冷蔵庫からコーヒー牛乳を取り出して一気飲みすると、相変わらずソファにゆったり座ってくつろぐ乙成の元へと向かって行った。
「? 前田さん、どうしたんですか? 真剣な顔して」
「……そろそろ部屋に戻ろうか」
「……はい」
俺の真剣な眼差しに、ただならぬ雰囲気を感じたのか、先程までリラックスしていた乙成まで真面目な顔になる。これから長い夜になるのだ……彼女もそれを察しているのだろう。
朝霧さん達をおいて、俺達は部屋に戻った。部屋までの間も、俺達……というか俺はまともに乙成の顔を見られない。
「前田さん、やっぱり変ですよ?」
「え?! そ、そうかな?」
部屋に入った所で、再び乙成に心配される。なんでこんなに普通にしているのか。こっちは終始ドキドキしっぱなしだってのに。
「前田さんもしかして、緊張してます?」
「なっっ……!」
俺の顔を覗き込みながら笑う乙成は、いつもの無邪気さは影を潜め、今日は何処か妖艶な雰囲気を醸し出している様に見えた。浴衣にアップスタイルだからなのかもしれない。閉め切っていない扉の前で、廊下の明かりだけで照らされた乙成は、今まで見たどんな時よりも大人っぽく見えた。
「初めてですもんね? 付き合って初めてお泊りするの」
「う、うん……」
ここは俺がリードを……なんてちょっと前の俺だったなら考えていたかもしれないが、今はそんな余裕はない。俺の手をとって微笑む彼女の目すら、まともに見られないんだから。
でもそんなんじゃダメだ……
覚悟を……覚悟を決めなきゃ……!
そして俺は、開け放した部屋の扉にそっと手をかけ扉を閉めた。
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