第152話そんな保養所があってたまるか
「どういう事? わけが分からないんだけど」
朝霧さんが怪訝そうな顔で俺と乙成を見てくる。分からないのは俺達だって同じだ。恐らく同じタイミングで、俺達も男女が言い争う声を聞いたんだからな。
「私達でも朝霧さん達でもないって事は、あの言い争う声は誰だったんですかね?」
「アレじゃね? 別の宿泊客が痴話喧嘩してたんじゃね?」
滝口さんの言う事も一理ある。近くで声が聞こえたから、全員勘違いしていただけで、あの声は他の客の声だったのかも。
「それはないわねー。受付の時、二階の客室は今日の夕方まで他の宿泊客は来ないって、受付のおばちゃんが言ってたもの」
滝口さんの予想を、朝霧さんがバッサリ否定する。そうか、じゃああのタイミングでは、二階には俺達しかいなかったという事か……。
「な、なんか、大丈夫なんですかね?」
俺の言葉に、全員の箸が止まった。さっきまで勢いよくクソデカイカ天やらざる蕎麦やらおにぎりやらに食らいついていたのに。
「前田、お前何が言いたい?」
明らかに声のトーンが落ちていく滝口さん。あれ? もしかしてこの手の話、苦手?
「いや、だって変じゃないですか? 俺達しかいないのに言い争う男女の声が聞こえるなんて……」
「それはアレだろ! 多分清掃スタッフの人達が、仕事に対する姿勢について語らう内にヒートアップしたんだろ!」
「ありそうだけどそれはないですって! 声の感じが痴情のもつれ的な感じでしたもん!!」
ダンッッ!!!!
俺達の言い合いを遮る様に、グラスを勢いよくテーブルに置いたのは朝霧さん……ではなく、乙成だった。乙成はオレンジジュースのグラスを握りしめながらプルプルしている。
「皆さん! せっかく旅行に来たんですよ?! なのに何ですか! 来て早々に不気味な話なんかしたりして! 良いですか? この世にお化けや怪物なんかいないんですよ! ホラー映画の見過ぎです!!」
お化けや怪物なんかいない……乙成はそう言うと、手にしていたオレンジジュースを一気に飲み干した。乙成もこの手の怖い話は苦手らしい。ホラー映画の見過ぎだなんて言って、ムキになって否定しているのが可愛らしいな。本人はゾンビだけど。
「そうね、乙成ちゃんの言う通りよ。私達、きっと何か勘違いしたんだわ。お化けが出る保養所なんて、そんなものあるわけ……」
「あら、あなた達、まさか
「「え?」」
俺達の話を聞いたからか、蕎麦屋の気の良いおばちゃんが話に割って入ってきた。気は良さそうだが、かなりの噂好きと見た。これは……何か良くない事を言い出す雰囲気だぞ。
「あそこの保養所、結構古いでしょう? 昔はよく、研修で他県からよく人が来てたのよ。そんなある日の事よ。研修でやって来た若い男が、同じく研修で他県からやって来た女に一目惚れしたの。そして研修を通して二人の仲はグッと縮まっていったの。でもね、その男には付き合ってる彼女がいて、しかもその彼女も一緒に来てたって言うじゃない!」
「それでそれで?」
男女の色恋沙汰とあれば目の色を変えるのが朝霧さんである。彼女はおばちゃんの次の言葉を待って目を輝かせている。
「一週間の研修が終わり、翌日はそれぞれの県に帰るって時よ。もう男の方は彼女の存在なんか忘れて、出会ったばかりの女に夢中! それに気が付いた彼女は当然、怒り、悲しみ、嫉妬の炎を燃やしたわ。彼を奪う事は許さない、誰かに奪われるくらいなら、私が奪ってやる! ってね」
またしてもシンと静まり返る俺達。妙にドラマチックな物言いのおばちゃんが話す世界に、すっかり引き込まれてしまった。
「最後の晩、彼女は施設の納屋からナタを手に取り男と女のもとへと向かったの。全てを終わらせる為に」
「え……」
おばちゃんはそこまで言うと、言い切ったとばかりに胸に手をあててふぅとひと息ついた。そしていつも以上に顔色の悪い乙成。今のおばちゃんの話が相当堪えた様だ。
「待ってよ、じゃああの保養所で、痴情のもつれから殺人事件があったって事?」
嬉々として話を聞いていた朝霧さんもこんな様子である。ドロドロな展開は大好物だが、流石に殺しまでは違うらしい。
「私は聞いたのはここまでよ。でも、あそこに泊まった人はみんな言うのよね〜深夜に叫び声が聞こえたとか、男女の言い争う声が聞こえた〜だの! あなた達も気を付けなさいね? この辺じゃ、ちょーっといわくのある場所なんだから!」
それだけ言うと、おばちゃんはなんだか嬉しそうに去って行った。ぼう然とする俺達を置いて。
「は、ハハ……なんだよ今のおばちゃん、あんなんただの噂話、だよな?」
「いや、俺に聞かれても……」
おばちゃんが去った後で、滝口さんが力無く俺に聞いてきた。三人全員、今の話でだいぶビビっているらしい。
夏本番前、連日過去の猛暑日を更新していく都内から二時間弱。小旅行と称して訪れた会社の保養所。開け放した窓と、壁に備え付けられた扇風機から心地よい風がおりてくる蕎麦屋の一角で、俺はテーブルに染み込むグラスの水滴を見つめながら、とんでもない旅行になりそうだ……と、心の中で静かに呟いた。
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