第143話お世話したがる蟹麿さん
「乙成、早速始めよう」
そう言って、俺は乙成の手を引いて自分の方へと寄せた。
「えぇ?! まさか原作通りの振り付きでやるんですか?!」
「だって、あの話は振り付きじゃないと臨場感出ないじゃん」
「うう……はい……」
もう既に、顔を真っ赤(?)にして恥ずかしがる乙成。今からやる事を想像すると、俺だって恥ずかしいけど仕方ない。これも乙成の推し疲れを治す為、より臨場感を味わってもらわないといけないのだ。
『あいり、こっちへ』
ここからは、しがないサラリーマン前田廉太郎を捨て、蟹麿モードである。このエピソードの蟹麿は、毎日遅くまで仕事をこなす主人公の為、休憩と称して主人公にベタベタ触りまくるという、距離感がバグっている蟹麿らしいと言えばらしいエピソードである。こればっかりはセリフだけじゃいまいちピンと来ない所があったので、今までなんとなくやらなかった。しかし、今はもう俺達はカップルである。多少身体が密着する様な事があっても許してもらえるだろう。
「わわっ」
乙成を自分の膝の上に座らせる。正直めちゃくちゃ恥ずかしいが、向かい合う体勢じゃないだけマシだ。そんな事したら色んな意味でアウトだろうからな。
俺は決して大柄ではないが、それでも乙成と比べると結構体格差がある様だ。俺の膝の上にちょこんと乗る乙成。腿にあたる感触は柔らかく、髪の毛からはふわりと石けんの香りがした。会社の一室で、俺達は一体、何をやっているんだか。
『あいり……』
「ふ、ふふ……」
耳にかかる程近く、俺が蟹麿の声で乙成の名前を呼んだ時、それまで我慢していたのか、乙成は肩を震わせて笑いだしてしまった。
「乙成?!」
「ご、ごめんなさい……! 笑っちゃダメだって分かってるんですけど、なんかくすぐったくて……!」
これだ。最近蟹麿の声真似をあまりしなくなったもう一つの理由。何故か最近、俺が蟹麿の声をやると乙成が笑うのだ。今までだったら、オタクまる出しの気味の悪い笑顔で終始ニヤついていたというのに。
「も、もう大丈夫です! 続けましょう?!」
そう言いながら、乙成はまだ笑っている。こっちだって恥ずかしいのを我慢して、蟹麿になりきろうとしてるってのに!
「あ、そうだ」
ここで一つ、良いアイデアが浮かんだ俺は、椅子に立てかけてあった鞄に手を伸ばした。
「え? 前田さん、どうしたんです……?」
えーと、あったあった! これだ!
取り出したのは、鞄の中に丸めてしまってあったネクタイ。ほとんどネクタイを締める機会なんてない会社だけど、念の為いつも持って来ている。俺は、そんな万年鞄に入りっぱなしのネクタイを取り出して、俺の膝の上でキョトンとしている乙成の目の高さまで持ってきた。
「ちょ?! なんですか?!」
突然ネクタイで視界を塞がれ動揺する乙成。痛くないように優しく結んだが、それでも急過ぎてかなり驚かせてしまった様だ。
「ごめん乙成、でも、俺が喋ってるって思うから笑っちゃうんでしょ? 今は、蟹麿に集中して」
「う……は、はい……」
耳まで真っ赤にしながらも、視界を塞がれた事により大人しくなる乙成。正直、この絵面はかなりヤバいが仕方ない。俺は蟹麿……俺は蟹麿……。久しぶりの蟹麿に緊張するのもあるが、暗示の一つでもかけないと、すぐに
『あいり、またこんな遅くまで起きていたのか? ほら、こっちに来て』
「はわ……はわわ……」
『手もこんなに荒れてるな、無理せず休めばいいのに……』
そう言って、俺(蟹麿)は乙成から借りたハンドクリームを手にする。乙成の小さな灰色の手を取って初めて気が付いたのだが、乙成の手には無数の小さな傷があった。細かくて気が付かなかったけど、これはゾンビ化の兆候だ。やはり最近、俺が蟹麿になってなかった事が原因なのだろうか?
「……ッ!」
手に取ったクリームを、丁寧に乙成の手に擦り込んでいく。視覚を奪われた中で、その感覚が慣れないのか、乙成は声にならない声を発して身を硬くする。
『あいり……』
「ふ、ふぁい……」
『休憩も悪くないだろ? あいりは頑張り過ぎているんだ。蜂朗や祐天の事、あいりがそこまで手を焼かなくていいんだ。僕は、あいりの為に、なんでもしてあげたいんだ。ねえ、あいり、他にして欲しい事はあるか? なんでも言ってくれ』
体勢が体勢だけに、どうしても乙成の耳元で話しかける形になってしまう。指先の一本一本まで丁寧にクリームを擦り込む内に、乙成の浄化が始まった。小さな傷は少しずつ消えていくと、今度は乙成の身体が熱を帯びていく。心なしか息も上がっている気がするし、この体勢といい、これは危険な予感がする。いや、乙成がどうこうってより、俺がどうこうなる気しかしない。
「ま、前田さん……」
恥ずかしさの限界に達したのか、乙成が振り返る。その時、緩んだ目隠しの間から、乙成の大きくて潤んだ瞳が見えた。もう少しで届く。思ったより近くに見える乙成の形の良い唇。俺は、自然と手を、乙成の頬に持って来ていた。
「乙成……」
「乙成ちゃーん? いるーー?!」
ドン! バタバタバタ!!!!
「ああああ朝霧さんんん?!?!」
「なにしてんのよ? 二人して」
あと数センチ、膝の上に乙成を乗せたまんま、あと少しで唇が触れる、そんな時に、お約束と言えばお約束だが、乙成を訪ねて朝霧さんが勢いよく追い出し部屋の扉を開けた。俺達は、何処にそんな力が眠っていたのかと思う程、驚きの反射神経で素早くお互いから離れ、乱れた服を正し、朝霧さんの方へと向き直った。まだちょっと乙成の顔は赤いが、この赤さは俺にしか分からない赤さだろう。なんたって乙成はゾンビだからな。
「相変わらずいっつも一緒にいるのねえ。お菓子貰ったから、一緒にどう? って誘いに来たんだけど」
「わあ! お菓子! 食べたいです! 行きましょう前田さん!!」
「え? あぁ、うん」
さっきまでの情事を誤魔化すかの様に、ハイテンションで朝霧さんに対応する乙成。俺もまだ心臓がバクバクしているが、それと分からない様に普段通り振る舞った。
「あら? 乙成ちゃん、五月病はもう治ったの?」
え? 五月病?
「ああ! そう言えば! 最近ずっと怠くて身体が重かったんですけど、なんか楽になりました!」
五月病……
朝霧さんの問いかけに、元気いっぱいで応える乙成。確かに少しは顔色が良く見える。いや、そうじゃなくって……!
「え、待って乙成。お前って推し疲れしてたんじゃ……」
「推し疲れ? なんの事でしょう? 私がまろ様を嫌いになる筈ないじゃないですか! それにしても前田さん、前田さんがそこまでまろ様の事を想っていてくれていたなんて、感激です……! 迫真の演技でまろ様を演じる……前田さんの想いに、私もちゃんと応えないといけませんね!! 今度また、読み合わせ会を開きましょうか! 私、不慣れではありますが、メンズの役もちゃんとこなします! 前田さんの好きな、住吉一千与とまろ様の絡み、二人で協力して作りあげましょう!!!」
キラッキラの笑顔を向けながら、オタク特有の熱量で語る乙成。乙成の推し疲れを改善する為に、恥ずかしい思いまでして蟹麿を演じたのに、いつの間にか、俺が蟹麿になりたくてしょうが無い奴みたいになってしまった。
ふう、やれやれ。彼女のご機嫌を取るのも、楽じゃないね! これが彼女持ちの苦労ってやつか!
そしてここから数週間に渡り、俺は蟹麿になるべく毎日乙成の指導を受ける羽目になったのだ。
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