第141話推し疲れの乙成さん
「あぁ〜それは俗に言う、推し疲れというやつですな」
乙成の元気がなかった日、その日も一緒に途中まで帰ろうと話しかけても何処か元気がないのは変わらずだった。今日は大根が安いから……と言って、別れを惜しむ事もせず電車を降りてしまった乙成。俺はその足である人の所へ向かった。
それはオタクの先輩、四月一日さんである。いや、先輩なのは知らんが、この感じが既にベテラン感を出しているから。彼女なら乙成が何故元気がないのか、その理由が分かると思ったのだ。
「推し疲れって聞いた事あるー! なんか好きだけど色々あって疲れちゃうやつでしょ?」
四月一日さんが必死に採寸する横で、真っ直ぐ片手を伸ばしてそれに応じるリン。今日は
教えられた住所をもとに辿り着いたのは、この厳かな雰囲気漂う日本家屋。四月一日さんって、やっぱりお嬢さんなんだなあ……思えば所作とか静かだもんな。見た目も中身も完全にオタクだけど。
「え、じゃあ乙成は蟹麿を推す事に疲れて元気ないの?」
「一概には言えませんが、恐らくそうかと。まぁ推し活をしていれば誰もが通る道ですよ。理由は様々ですけど、特にあいりん殿が推している
「なるほど……え?
「んーまぁ、そのまま
なん……だと? ちょっと待て、それってめちゃくちゃヤバくない?
「そんなの……乙成が、蟹麿を捨てるって言うの?! 四月一日さんはそれでいいの?! 同じゲームを好きなのに!」
「いや、オタクは基本去る者は追わない主義なので。一方的に推しているだけですので、新しい推しを見つけて輝く友人を応援しますよ?」
ちょっとドライすぎん? 四月一日さんがそうなのか、オタクはみんなそうなのか……。どちらにせよ、この状況は非常にマズイ。何がそんなにマズイのかというと……
「でもさぁ、あいりんって兄貴の事、蟹麿の声に似てるから好きになったんだよね? 蟹麿の推しから降りちゃったら兄貴とも終わっちゃうの?」
俺が今まさに懸念していた事を、リンが代弁して言ってくれた。俺の声だけで乙成が俺と付き合っているとは思いたくないが、俺と親しくなったきっかけは蟹麿である。蟹麿が乙成の世界から消えるという事は、俺も消されるのではないかと言う事。そう思ったら、今日の滝口さんご言っていた「お前に飽きた」という言葉も自然としっくりくる。
これは……これは由々しき事態だ!
「まぁあいりん殿に限ってそんな事はないと思いますぞ?」
「で、でも……俺は今、蟹麿の声真似をするっていう役割を担っているわけで……それがなくなったら、俺の存在価値なんて……」
「あぁ、なんとなく前田さんの言いたい事、分かります」
ここで突然、俺達の話を聞いていた嵯峨山さんが話に入ってきた。流石呉服屋の息子、それまでキチッと正座しながら、布地の柄の位置を、デザイン画を見ながら丹念に合わせていたのに、一切無駄のない美しい姿勢を保ったままこちらに体を向ける。何故か俺まで背筋が伸びた。
「それって、何か一緒にいる理由があるから一緒にいてくれている、前田さんはそう思って不安なんですよね? 状況は異なりますが、僕も今は同じ状況です。五月さんの夢のお手伝い。それが終わってもまた会ってくれる様な、会いたいと思ってもらえる様に頑張らないとですね」
「な、ななな何をおっしゃいますか嵯峨山殿! 私は体よく栗花落の衣装作りに借り出している訳じゃないですぞ?! それに……これが終わっても私は嵯峨山殿と……」
「五月さん……」
「あーーー! またいちゃいちゃしてるー! 兄貴ー! さっきからこの二人、こんなんばっかなんだけどー?!」
「俺、帰るわ」
モジモジカップルのいちゃいちゃに付き合わされているリンを置いて、俺は四月一日さんの家を後にした。帰る道中も、頭の中は乙成の事でぐるぐるしている。
捨てられる……まだ付き合ってそんな経たないのに、俺は蟹麿と共に消されるのだ。
そんな事、そんな事させない!!!
乙成に、もう一度蟹麿に夢中になってもらわねばならない!!!
俺は蟹麿再燃の思いを心に誓って、日の落ちた住宅街を足早に通り過ぎて帰路に着いたのだった。
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