第89話やっちゃった

「ねね、開けてみようよ!」


 リンのキラキラした目が俺の持っているチョコに注がれている。人生で初めて女の子から貰ったバレンタインのチョコだ。そんな簡単に開けたくはない。


「い、嫌だよ! てか、お前はこれ見てなんも思わないの? ほら……」


 そう、リンはつい一週間前に乙成に振られたのだ。絶賛傷心中な筈で、その乙成が俺に渡して来たチョコなんて見たくない筈じゃないのか?


「何言ってんの!! 俺、切り替え早いしもう大丈夫だよ!」


「そ、そうなの? いや、でもダメだ!! これは俺が一人で開けるんだから!!」


 俺はそう言って、俺の手からチョコを奪い取ろうとするリンを必死で回避した。しばらくこの攻防を続けていたが急に飽きたのかリンは、ベッドの上のチョコをブルドーザーみたいに雑にどけてベッドに寝転んだ。


「兄貴ってばそういう所が童貞くさいんだよ! もう寝る!!」


「ひど……てか! 人のベッド取るな! お前は床で寝ろよ!」


「やだよお! 床なんて! 一緒に寝ればいいじゃん。俺とで寝れるなんて、兄貴くらいしかいないよ?」


 意味ありげな言い方をしながら、リンが俺をベッドに誘ってくる。ねずみ色のスウェットを着てるくせに。


「変な言い方するなよ!」


 しぶしぶリンの隣に横になる俺。布団に入るなり俺の腕に絡みついてくるリンを見て、もうすっかり立ち直ったのだと分かって安心した。




 ******



 翌朝。今日も休みなので早く起きる必要はない。部屋の空気は冷たく、俺はまた布団の中に潜っていた。


 あれ? そういえばリンは?


 薄目を開けて隣に目をやると、布団の中にリンの姿はなかった。


「兄貴ー俺もう帰るねー」


「ん……」


 まだ眠たい目を擦りながら、俺は帰り支度をしているリンの方を見た。ねずみ色のスウェットはもう着ておらず、いつもの短いスカートに、黒いマスクをしている。


「すっぴんだからさぁ〜流石に男なのバレそうで」


「いや……多分気付かれないと思うぞ」


 フードを深く被り、鏡を見ながら必死に前髪を直すリンに向かって、俺は寝起きのカスカス声で返事をした。


「てか昨日結局チョコ食べなかったね! いくつか置いて行こうか?」


「うん……適当に置いといて。俺は寝る……鍵、そこにあるから」


 リンが「兄貴の合鍵ゲット〜♪」みたいな事を言って浮かれていたが、俺は昨日の疲れが出たのか、それ以上リンの話を聞くまでもなく眠りについてしまった。部屋を出る時も、リンが何か言っていた気がするが、とにかく今は二度寝だ。俺の身体が睡眠を欲している。



 ♪〜♪〜♪〜



 スマホの着信音がする。それも遠くてくぐもった音だ。俺はいつも必要以上に音量を大きく設定しているから、こんなに遠いと何処から聞こえているのか分からない。


 ♪〜♪〜♪〜



 着信音はまだ鳴っている。充電していた筈だから、コンセントの近くにあるだろうと手を伸ばしてみても空振るだけでスマホが俺の手に触れる事はない。


 ♪〜♪〜♪〜



「うるさいっ!!!!」



 まだ微睡んでいたい気持ちを無理矢理奮い立たせて、俺は顔まですっぽり覆っていた掛け布団を引っ剥がした。


 あった。


 掛け布団と毛布の間に隠れていたスマホ。遮る物がなくなって余計にうるさく鳴り響く。


 着信の主は乙成だった。最近じゃこうやって、俺が電話に出るまでかけ続ける。俺はスマホの通話アイコンをスライドさせて電話に出た。


「もしもし?」


「あ、おはようございます前田さん! もうお昼ですよ!」


 電話の向こうの乙成は相変わらず元気いっぱいだ。


「昨日歩き疲れて……乙成は元気いっぱいだな」


「それはもう! 私、寝起きめちゃくちゃいいんです! 今日も早起きして、家の事全部終わらせました!」


「それは凄いな」


 ほとんど毎週、こんな会話もしている気がする。彼女が早起きで、俺がいつも寝坊している。こんな他愛のない会話一つとっても、今までの俺の人生では考えられない話だった。



「それで……前田さん?」


「ん?」


「昨日の……もう開けました?」


 その言葉に、俺は顔が熱くなるのを感じた。昨日のとはつまり、あれチョコの事だ。


「いや……昨日は疲れてすぐに寝ちゃったんだ。まだ食べてないよ」


「そうでしたか。まだ開けてないならいいんです!」


「え? なんかあるの?」


 電話の向こうで乙成がモジモジしているのが分かる。その姿まで鮮明に頭に浮かぶのは、それだけいつも一緒にいる証拠だろう。しかし、なんでそんなに早く開けて欲しがっているのだろうか?


「えっと……メッセージ……箱の中にメッセージカードを入れてて、それで、それを読んでくれたのかなって思ったのです……」


「え! そんなものまで書いてくれたの?!」


「あ、いえ! そんなたいした事は書いてないですよ! でも、日頃の感謝を伝えたくって……」


 そんな素晴らしいものが同封されているなんて。やっぱり昨日、リンと一緒に開けなくて良かった。人生初のチョコだけじゃなく、人生初女の子から手紙的なものまで貰えるなんて……! 俺、死ぬんかな……? 急に運気が上がってくると不安になる。


「たいした事あるって! じゃあ今日、絶対に開けてみるから……」



 そこまで言った所で、ふと机に目をやる。その瞬間、俺は後に続く言葉を切ってしまった。





 ない。



 乙成から貰ったチョコがない……!



 机の上にはリンが置いて行ったチョコ達。その中にも何処にも、昨日乙成から貰った筈のチョコが見当たらなかった。



「? 前田さん? どうしました?」



 俺の血の気と共に、サーッと音を立ててかき消えた乙成の心配そうな声。


 

 あの時神棚から動かしたから……。


 

 俺の頭には、最早乙成の声は届いておらず、かわりに押し寄せる後悔に全身を飲み込まれてしまいそうだった。



 

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