ゾンビを好きになりました
第75話刺身包丁の襲撃者
俺の名前は前田廉太郎。しがないサラリーマンだ。
特にこれと言って趣味はなく、平凡な日常をただ淡々とこなす毎日を送っていた。
しかし、そんな俺にもついに大きな心境の変化が訪れたのだ。
それは俺の会社の同僚、乙成あいりを好きになった事だ。彼女は真面目で人当たりも良く、料理が上手なとても女の子らしい子だ。
長い黒髪に大きな目。小柄で肌は灰色。その姿は映画やゲームで出てくる様な、所謂ゾンビと言われるものに似ている。というか、ゾンビそのものだ。
色々割愛するけど、俺はひょんな事から、彼女の愛してやまない想い人、天網恢恢乙女綺譚の兜々良蟹麿の声を真似して毎日甘いセリフを囁くという大役を任されている。
彼女は俺のこの声を聞かないと、体中にどんどんゾンビ化の兆候が現れ、果ては今よりもっとグロテスクな存在になってしまう……のかは知らんが、多分そうなる。
最初こそ乙成に無理矢理付き合わされて始まった特殊な関係だったが、毎日一緒にいる内に俺の中で小さな恋心が芽生えてしまったのだ。
しかしずっと
したがって、この感情は長年女の子と親しくなるイベントが一切無かった事によるおかしな勘違いだと思い込んでいた。
だけどそれは違った。俺は今、はっきりと、乙成を異性として意識している。ゾンビとかってややこしい事情は置いといて。
この子と一緒にいたい。ずっと二人で笑っていたい……
やっと……やっと俺は、自分の気持ちに素直になれたんだ。
「お前、ここで何をしている?」
そんな俺のピュアな気持ちとは裏腹に、今置かれている状況はとてもじゃないが穏やかではない。
目の前にはマットレスに突き立てられた鋭利な刺身包丁。刃渡り30センチ程の、美しく滑らかな輝きを放つ
そして、その刺身包丁の柄を掴んだままこちらを睨みつける男。長い黒髪を後ろに一つに束ね、少し長い前髪の隙間から鋭い瞳がギラリと光る。透き通る白い肌に長い手足が、まるで漫画でよく描かれる様な、美男子の姿そのものだった。
「貴様、ここで何をしているのだと聞いているんだ」
「き、貴様って……」
生まれて初めて面と向かって「貴様」と呼ばれた。この男が醸し出す殺気は尋常じゃなく、動こうものなら刺身包丁で斬りつけられる……そんな底知れぬ恐怖を感じた。今の状況は正に蛇に睨まれた蛙だ。俺が小さくて可愛いアマガエル、この不審な男は……蛇の種類そんな知らんから例えようがないけどとにかく大っきい蛇だ。
俺は座ったままゆっくりと後退りした。後ろに下がってもクローゼットがあるだけで完全に詰んでいるのだが、少しでもこの男と距離を取らないとヤバい。だってこの人、目イッちゃってるんだもん。
「どうして
「いやまだ何も言ってな……!」
男はマットレスに垂直に刺さった刺身包丁を引き抜くと、ゆっくりと俺の方に迫って来た。
てか、リンは何処に行ったんだ! 夕べはここで一緒に寝ていた筈なのに……!
ポロン♪
その時、俺のスマホが鳴った。画面に表示されたメッセージを横目で確認する。
リン「兄貴へ。昨日の今日であいりんに会うのが気まずいから、起きる前に帰ります。あと、外で魚と包丁持った人見たよ! 変な人だったら怖いから、兄貴も気をつけてね!」
こ、こいつだぁーーーーーー!
魚こそ持っていないが、多分リンが言っている男はこいつだ。刺身包丁の刃先に触れるか触れないかのギリギリの所をツンツンして玩びながら近寄ってくる。
「今日はねぇ、あいりと手巻き寿司をしようと思って来たんだ」
え、急に何。めっちゃ怖いんだけど。手巻き寿司って何かの隠語?
「でもあいりは寝てるし、部屋には男がいるし……」
俺はこの一瞬で、捌かれるのは魚ではなく自分なのだと確信した。男は尚も刺身包丁の刃先をツンツンしながら、俺を舐め回す様に見ている。
「…………あいりに近付く事は許さない」
や、やられる……!
男は刺身包丁を俺目掛けて振り下ろした。
「
俺が死を覚悟して固く目を閉じた瞬間、その声は張り詰めた空気を切る様に寝室に響き渡った。
「……あいり」
男は振り上げた手を下ろすと、そのまま床に刺身包丁を落とした。賃貸アパートの床には刺身包丁の柄の跡がくっきり。あれくらいの傷なら退居の時に何も言われないか……などと余計な事を考えている場合ではなく、俺も声のする方へと顔を向けた。
「光太郎さん! その人に変な事したらダメですよ!」
声の主は乙成だ。乙成はベッドから体を起こして、光太郎と呼ばれている男を真っ直ぐと見ている。
「でも……あいり」
「そおよぉ、
今度は寝室の扉を開けて女性が入ってきた。金髪ウェーブヘアの美しい女性だ。何処となく表情が乙成に似ている……
え? この人達って……?
「麗香さん。はい、"待て"します」
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