第60話前田、動きます

「乙成!!!」


 扉の隙間から見えた乙成の姿。開け放されたリビングの扉の向こうで、うつ伏せで倒れている。

 俺は慌てて玄関の扉を開けて中に踏み込んだ。


「くわっ! なんの匂いだ……?」


 部屋の中はなんとも形容し難い異臭が漂っていた。ガス漏れ……? いや、ガスというより薬の様な苦みを感じる匂いに似ている。なんだこれは?


 そんな事より今は乙成だ。俺は玄関に靴を投げ出して一目散に乙成へ向かって行った。


「乙成……! おい! しっかりしろ!!」


 抱き上げた乙成は、今まで見たどの時よりも顔色が悪かった。まさか……ゾンビ化が進行してしまったという事か? 俺は見えている範囲で傷を確認した。足に数か所、少し進行した傷がある。くそっ……!


「う……うぅん……」


「乙成ッ?!」


 微かに乙成の声が聞こえた。浅いが呼吸もしている。良かった、生きている。


「ま、えだ……さん……?」


「乙成! 待ってろ、今救急車を……!」


「み、みず……」


「え?」


「水を……」


 乙成は絞り出す様な声で呟くと、薄目で俺の方を見た。その目にはいつもの光はなく、俺の姿を捉えているのかも分からない。俺は慌てて台所から水を持ってきて乙成に手渡した。


 ゴク……ゴク……


 体を起こして水を飲む乙成。その姿を見守る俺。渡したペットボトルの水がなくなりかける所まで、乙成は息継ぎもせずにがぶ飲みしている。……大丈夫か?



 


「ぷはーーーーーーーーー!」





 急に大っきな声を出して乙成がペットボトルを床にダンッと置いた。心なしか、顔色が戻っている様な……? いつもの灰色に戻っていた。


「乙成……? 大丈夫?」


「前田さん! ありがとうございます! 助かりました!!」


 さっきまでのぐったり乙成は何処へやら、水を飲んだ乙成は床に倒れていたせいで体が痛いのか、座った状態で左右に体をひねったりしていた。


「な、何があったんだよ?」


「いやぁ、実は今日家族が遊びに来ていたんですよねー。あの人達朝早くって! 昨日は朝霧さんに終電間際までファミレスで愚痴を聞かされてて……睡眠不足で母の行きたい所を巡っていたんです」


 あっけらかんと答える乙成。大事にならなくて本当に良かったが、寝不足だけであんなになったりするか?


「でもそれで倒れたりまでするか……?」


「ああ! それは、帰りに母から貧血によく効くお茶を貰ったんです! なんか私の顔色が悪いからって言って!」


 顔色が悪いのは貧血気味だからではないと思うが……乙成のお母さんもちょっと鈍いのかな?


「それで、母達と別れた後に家に帰って貰ったお茶を煎じて飲んでみたんです! そしたらそれがめちゃくちゃ不味くって!! あまりの不味さに倒れてしまいました!」


 乙成はまたしてもあっけらかんと答えながら笑っている。こっちは心臓が止まるかと思う程に驚いたのにいい気なものだ。


「あれ? そういえば、前田さんどうしてここに?」


 本当にいい気なものだ……一日不安でソワソワしていた事も知らないで……


 本当に……


 本当に、いい気なものだ。



「わっ! 前田さん?」


 俺は思わず乙成に抱き着いていた。リビングの硬い床の上、ぺたんと座ったままの乙成の体を自分の方へと寄せるように抱きすくめる。


「どうしてじゃないって……一日連絡寄越さないで! 何かあったんだと思うだろ?!」


「前田さん、お酒と煙草の匂いがします。飲んでたんですか?」


 俺の背中に、乙成がゆっくりと手をまわす。心臓がバクバクして破裂しそうなのに、不思議と居心地の良さを感じた。いつもの柔らかい声で、乙成は俺に質問しながら体を預ける。


 今日一日連絡がなくてずっと不安だった。気が付かない様にしていたが、ここ数ヶ月で俺の中でとてつもなく大きな存在になってしまっているのだと実感した。


 それは朝霧さんに忠告されたからでも、リンに宣戦布告されたからでもない……いや、ちょっとあるかも。


 でも、もしこのまま、彼女のゾンビ化が進行してしまったりなんかして、俺の事とか忘れちゃったりなんかしたら、嫌だ。


 俺はどうしたいのか、それはまだ上手く言語化出来ない。でも、こんな俺でも彼女にしてあげられる事はある筈だ。


「乙成は……どうしたい?」


 何を言っているのか、自分でも分からなかった。自分がどうしたいのかも分からないのに、乙成に答えを聞くなんてどうかしている。


 俺の心臓の音が聞こえそうなくらいぴったりとくっついている乙成。抱き締める俺の手にも力が入った。


「前田さん……私」


「うん、何?」


「私……」


 乙成の手にも力が入る。乙成の部屋で二人っきり、時計の針のカチカチいう音だけが部屋に響いていた。










 

 


「私、赤ブーに行きたいです」



 


「うん、分かった……って、え?」



 ……………………え?


 


 


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