第10話嵐の予感


『距離が近いなんて、あいりは僕に言うけど、適切な距離ってどれくらいなの?』


「……」

 

『ん? なんだ? あぁ、この手か。こうやって、あいりの手を握っていると、落ち着くんだ。嫌か? だったら、もっとこっちに……』


「……」


「あれ? 乙成? 聞いてる?」


「すうぅぅ……」


「寝てる!!!!! 俺が頑張って恥ずかしい台詞を話している時に!!!」


「……っは! すすす、すみません! ついうっかり」


 今日も今日とて、いつもの様に会社の屋上で乙成にまろ様チャージをしている中、俺が迫真の演技をしている最中に、なんと乙成が寝やがった。約束したとは言え、何回やっても女性の下の名前を呼び捨てにするなんて恥ずかしい事この上ない。

 最後に女の子の下の名前を呼んだのなんて、滝口さんに連れて行ってもらった風俗店の女の子を除けば、小学生ぶりだぞ? 


 そんなに心地よい声だったのか? いや、違う。ここの所、乙成は業務中も眠たそうにボーっとしている事が多々ある。

 昨日もぽけ〜っと明後日の方向を向いて呆けていた所に、朝霧さんに特大サイズのアメ玉を口に投入されていた。異変で起きた乙成は、まるで平成の時代に流行った、ビー玉を飛ばして遊ぶおもちゃみたいに口からアメ玉を勢いよく発射して周囲を驚かせていた。


 先日の飲み会以来、乙成は少しみんなと打ち解けてきている様だ。あの滝口さんともだ。まぁ、滝口さんとの会話は八割くらい噛み合っていない事が多いが、それに二人とも気が付いていないから良いとしよう。

 それより何で、こんなにも乙成のHPが減っているのかという事だ。絶対に何かある。


「最近どうしたんだ? なんか仕事中もボーっとしてるし、どっか具合でも悪いのか?」


「いや……はは、そんな理由じゃないんです」


 乙成は何だかバツが悪そうにヘラヘラしている。だいたい、乙成の為にやっているのに、その本人が寝るとは何事だ。俺の蟹麿ボイスは、最近更に研ぎ澄まされてきて、本家と見紛う程だ。ちゃんと場面に応じて、息漏れ混じりに台詞を言える様にまでなったんだぞ?


「そんな理由じゃないなら、何があったんだ?」


「あの〜その、まろ様です……」


「え?」


「制作中のぬいまろが佳境に入っているところなんですよおおお! よりクオリティを上げようとしたら、どんどん凝ってきちゃって! そうこうしている内に、もう今月がまろ様の誕生日! 最早寝ている暇なんてないのですうう」


 と、乙成は半泣きで俺に言ってきた。俺はあまりにくだらない理由で夜ふかししている乙成に、ラリアットの一つや二つ、お見舞いしてやってもバチは当たらないのではないかという気分に駆られてしまった。


「ばかやろう! そんな事で夜ふかしなんかするな!」


「そんな事とはなんですか?! 来たる、まろ様生誕祭に向けて、私、本気で色々計画しているんです! この思いは誰にも負けない! 誰にも邪魔出来ない!」


 乙成の髪がブワっと逆立つ。彼女の逆鱗に触れてしまった様だ。今にも襲いかかってきそうな気迫を漂わせながら、前髪で隠された顔半分のおぞましい姿を晒して、乙成は俺を睨んでくる。


「す、すみません……」


 降参だ。顔が怖い、怖すぎる。なんでか空の色までドス黒い禍々しい色に変わった気がしたもんだから、俺は早々に謝った。


「分かっていただければ、それでいいのです」


 いつもの乙成に戻った。特定のアクションを間違えると、レイジモードを発動するから気が抜けない。多分、この状態の乙成は、物理攻撃が全く効かなくなったり、壁や扉を一撃で壊せる様になったりするんだと思う。頼みの綱は、ショットガンただ一つ……ではなく、とりあえず謝っておいた方が懸命だ。幸い、まだ話の通じる相手だからな。


「とにかく、あんまり無理はするなよ? まろ様の誕生日までに身体壊したら、元も子もないだろ?」


「うぅ……そうですよね、しっかりしないと……」


 そう言うと、乙成は自分の両頬をバシバシと叩いて気合いを入れた。見ているこっちが痛くなる程の勢いだ。


「それにしても、結構細かい傷は消えたのに、その顔の傷は一向に良くならないな」


 昼休みがもうすぐ終わる。少し早いが俺達は執務室へ戻る事にした。戻る途中、俺の隣で両頬を腫らした変な顔の乙成に、ふと気になっていた顔の傷の事を尋ねてみた。


「そうなんですよね〜やっぱり、傷が大きいからなのかな? 顔を洗う時に不便なんですよね」


「石鹸とかつけて、痛くないの?」


「痛くないですよ! ちょっとズリュ……ってするけど、全然平気です!」


「いやそれ絶対平気じゃないっしょ。普通は顔からズリュ……って音はしないからな」


 などと、いつもの様に他愛もない会話を繰り広げながら歩いている間に、執務室のある階まで降りてきた。


 何だか俺達の階がやけに騒がしい気がする。


 どうやらみんなの目線は、俺達のデスクに向けられている様だった。

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