第5話
久美はツカツカと安田の前までやってくると、中腰になった。
「安田くぅん。ここ、難しくてできないんだけどぉ、教えてくれなぁい?」
いつも通り腰をくねらせながら言う久美に、美穂も文音も澄恵も目を丸くした。
「どれですか?」
「やだぁ安田くん。敬語なんてやめてよぉ。わからないところはここぉ」
「これ、新人社員だってできる書類ですよ?」
「えぇ? そうなのぉ? じゃあ私、安田くんに1から教わらなくっちゃあ!」
コツンッと自分の頭を叩いて舌を出している。
(な、なにあれ……)
これにはさすがに澄恵も驚いた。
不倫関係にあった今井との関係が終わりそうだから、すぐに身をひるがえしたのだろう。
呆然として久美の様子を見つめる3人。
「ちょっとなにあれ」
怒りで震える声で言ったのは美穂だった。
美穂は持っていたペンをキツク握り締めて、今にもへし折ってしまいそうだ。
そんなことになっているとは知らず、久美は唇に指を当てたり、小首を傾げたりと、必死でかわいいアピールをしている。
全然似合ってないのに……。
安田の方はどうにか久美に仕事を覚えてもらおうと、真剣に説明を繰り返している。
けれど、当の久美は安田と会話ができれば、仕事なんてどうでもいいのだ。
覚える気なんて最初からない。
「私ぃ、よくわかんないからら、今度一緒にご飯で行こうよぉ。その時にゆっくり教えてほしいなぁ」
体をくねらせて言う久美。
「一体なにを教えてもらうつもりよ……」
震える声で言ったのは文音だった。
いつもの可愛い文音のキャラはどこかへ鳴りをひそめて、今は怒りで顔を真っ赤に染め、拳を握り締めている。
(あ、これはまずいかも)
澄恵がそう思っても、もう遅い。
2人はツカツカと久美に近づいた。
「福森先輩、ちょっとお話があります」
美穂が久美を睨みつけて言う。
「ちょっとなによぅ。私今、安田くんに仕事教えてもらってるんだからぁ」
頬をふくらませて2人を睨みつける久美。
しかし安田の前だからそれすらブリっ子だ。
「その仕事なら私たちが教えてあげます。先輩よりも仕事できますから」
ピシャリと言う美穂に、さすがに久美もたじろいだ。
助けを求めるような視線を安田へ向けるが、仕事熱心な安田はすでに自分の業務へ戻っていた。
仕方なく久美は2人へ向き直る。
安田が見ていないとわかったからか、腕を組んで顎を上げ、2人を見下すような体制をとった。
「私だってね、好きで仕事を教えてもらってるわけじゃないのよぅ」
「は……?」
キョトンとした表情で聞き返したのは文音。
「このくらいの仕事、私ができないわけないでしょう?」
「で、でも今安田くんに質問してたじゃないですか!」
美穂が食って掛かる。
すると久美はふふんと笑ってみせた。
「それはね、後輩がどのくらい成長したか確認するためよぅ。安田くんはうちの部のホープなんだから、時々確認するのは当然でしょう?」
(絶対に嘘だ……)
澄恵は思う。
久美は明らかに仕事ができないし、安田と絡みたいだけだ。
けれど久美は上から目線を崩さない。
美穂と文音にしても、そう言われたら言い返しようがない。
(あの2人でも久美には負けちゃうんだ……)
そう思った時だった。
不意に安田が立ちあがり、書類を持って澄恵へ近づいてきた。
咄嗟の出来事に反応できず、澄恵はぼーっと安田を見つめる。
「この書類をまとめてくれたのって、福森さん?」
そう言われて持っている書類を確認すると、それは確かに澄恵のやった仕事だった。
「なにかやらかしたのね」
久美がため息交じりに呟く声が聞こえてくる。
澄恵は慌てて立ち上がり「そ、そうです。ごめんなさい!」と、頭を下げた。
なにをどう失敗したのかわからないが、普段から謝るクセがついているため勢いで謝罪する。
社員たちが自分を見ているのがわかる。
久美が小さな声で笑っている。
美穂と文音が呆れたような視線を向けている。
(あぁ……どうして私ってこうなんだろう)
澄恵がドロドロとした気分で落ち込みそうになった、その時だった。
「いや、この書類すごく見やすいよ」
安田の言葉に澄恵は驚いて顔をあげた。
目の前には笑顔を浮かべる安田が立っている。
社内の空気が一瞬で和んだものに変化した。
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