19-4

 螺旋階段の下面にある空間は白い石壁で囲われていた。

 回り込んでみるとそこに宮殿めいたこのヴィラにまるで似つかわしくないいかめしい鉄扉が嵌っている。言われた通り、急ぎ足で二階部分の内覧を済ませて戻ってきた私をその場で待ち受けていたリンデン博士は真鍮製の鍵を片手に目配せをした。


「準備はいいかね、カイセ」


 子供じみた無邪気な笑みを浮かべた博士に私はひとつ、ためらいながらも頷く。

 すると彼は視線を手もとに落とし、おもむろに鍵を挿入して扉を引き開ける。

 重厚な軋みが静かな邸内に鳴り響き、私は思わずコソ泥のように背後に目線を流した。その気配を察したのだろう。博士は振り向きもせずノブに手をかけて告げる。


「大丈夫だよ、カイセ。今、ここにいるのは私たち二人だけだ。この扉の先へと進むまではね」


 その言葉はこの扉の先がティアガルテン4番地、国家保健局、別名『安楽死管理局』の地下、その別室にあったあの実験室そのものであると明かしていた。あの場所も夜にだけ開放される博士と私と検体たちだけの密室だった。

 分かっていた。

 博士も私に対しては実験の再開を堂々と公言していた。


 私の中で膨らみ続ける奇妙で悍ましい薄皮の風船。

 それは抗いがたい欲求の淹れ物であり、同時に人間性を保つための最後の障壁であった。


 実験助手を務める私は常に相反する二つの感情に苛まれていた。


 ひとつは羨望。


 逆説的聖典世界をこの世に創出することを目的に数々の実験を繰り広げていくリンデン博士を私は羨ましく感じていた。

 生が死に転ずるまでの経過において、あるいは自らの手が為さしめた無数の死の奥に彼は間違いなく私には見えない何かをつかみ取っていた。それはいつからか私が最も欲して止まない死の中に隠された未知の宝石そのものであるような気がした。

 実験を成功裡に成し遂げた時に見せる彼の愉悦の表情に私はそんな憶測を抱かずにはいられなかった。彫刻のように美しい顔がいやらしく歪み、下弦の月を彷彿とさせる弧を描いた口角から涎が垂れ、ザラついた喘ぎを何度も漏らす博士。


 ―――― 自分もやってみたい。


 私は密かに他人の玩具を羨む子供のように指を咥えてそれを見つめていた。またその度に博士の内側に隠れる得体の知れない『あの方』の気配がすぐそばで微かに感じられるような気がして、私は羨望を見透かされまいと硬く心を閉ざし博士の至福の時が過ぎ去るのをひたすらに待っていたのだ。


 もうひとつは矜持。

 

 幼い頃から死という現象に魅入られ、あまつさえリンデン博士の助手を平然とやってのける自分に人間らしい感覚や感情が残っているとはよもや考えたこともなかったが、それでも私にはまだ最後の一線を超えていないという自負のようなものがあった。ドイツに来て六年、またこのアウシュヴィッツに赴任して数ヶ月、その間に私は無数の死者と対面してきた。

 死にゆく者は皆、そのそれぞれに真奥に美しい煌めきを放つ光を隠し持っている。そしてやがて死に至るとそれは眩いばかりの宝石と化し、以後、時間の経過とともにそれは徐々に輝きを失っていく。私は光を失う前の宝石をなんとか手に入れようとこれまで躍起になって死者と向き合ってきた。けれどいつまで経ってもその本懐が成し遂げられることはなくここまで来てしまった。

 さすがに気がついていた。

 死者が持つあの輝きは生死を反転させた者にしか与えられない、いわば報酬のようなものなのだと。

 ティアガルテン4番地では博士の被検体である精神遅滞者の胸で鼓動を打つ心臓に、あるいはのたうつ頸動脈に何度、メスの刃を突き立てようとしたか知れない。また非労働力と判断されたユダヤ人などいくら気の向くままに殺したとしても特に罪にも問われないここアウシュヴィッツにあって、この手で誰かを殺してみたいという欲求が募り、それがブクブクとした泡沫となって体の内部から湧き出してくるような感覚に私は常に苛まれた。

 けれど私は繰り返しそれを思い止まった。

 私なりの矜持がそれをさせなかったのだ。

 

 ―――― 私にとって意義のない殺戮はいくら重ねても無意味だ。


 子供の頃、手をかけた数羽のヒヨコ以外、私の前に据えられた死はどれも他者の思惑によって生み出されたものであった。解剖検体然り、リンデン博士の実験検体然り、そして日々大量に殺されていくユダヤ人然り。その全ては私の意図を持って死を与えられた存在ではない。それらをいくら積み重ねたとしても私はそこに何の意義も見出せなかった。

 私の中で唯一意義を持った死に繋がるものといえば、それは聡一郎という少年だけであったような気がする。そしてその聡一郎の幻影が霞のように消え去った今となっては意義そのものがほとんど形を成さなくなっていた。

 

 ありていにいえば、もうどうでもいい。


 そんな気分が蔓延る中、けれど私はそれでも自分の意図しない殺戮はしないという形骸的な矜持だけは保ち続けていたのである。



 扉の向こうには地下へと降りていく薄暗い石階段があった。

 そこは華やかな邸内とは打って変わり、冷ややかでジメジメとした湿気と不穏な仄暗さに満ちた空間だった。途中、直角に折れ曲がった踊り場に白熱灯が申し訳なさげにひとつぶら下がっていて、それがその先にある鉄扉を怪しく浮かび上がらせていた。博士はそこで再び真鍮製の鍵をその扉に差し向け、数段後ろで待つ私に微笑みを投げかけた。仄かな光に照らされたその顔はまるで穏やかな般若のように見えた。

 冷たく硬い音がして鍵が開いた。

 そして博士が扉を引くとその先に思わず目蓋を閉じかけるほど眩い光景が現れた。


 

 

  

 


 

 

 


 

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