19-5

 真っ白な光に包まれたその部屋は予想していた通り手術室だった。

 

 私が呆然と立ち尽くした扉の真正面、その天井には大きな円盤状の六灯型無影灯が二台備え付けられ、それらが発する煌々とした光線が真下に据えられたスマートな手術台やいかめしい形状の大型麻酔器を眩く照らし出していた。そしてそれらの機器だけでなく整然と床に敷き詰められた肌理きめの細かい大理石のタイルまでもが強力な光を反射して手術室全体を幾何学的な影で染め上げていた。

 まるでそれは闇夜の街に浮かぶ煌びやかなショーウインドウのような趣であった。


「どうだい、カイセ。なかなかのモノだろう」


 振り向くと博士は顔に無邪気な笑みをしたため、翼のように腕を広げていた。

 私は動揺を気取られないように注意深く、彼に求められている賞賛を口にする。 


「ええ、素晴らしいです。見たところ手術台も麻酔器も無影灯も全て最新式ですね」

「ああ、ナチス傘下の大手医療機器メーカーに無理を通して送らせたんだよ」


 博士は頷いてそう答え、そしてもっと他にないかというように軽く首を傾けて見せる。 そこで私は答えを探すように目線を周囲に巡らせた。

 洩れ出した反射光はその透明なカプセルのような手術室の外側にも薄暮のような薄暗い空間を醸し出していた。

 ふと気付いた。

 手術室に向かって右手、数メートルほどの通路を隔てた場所にもやはりガラスケースのような小部屋がいくつか横並びに設られているようである。私の目にぼんやりと映るその格子目のように並んだ部屋。

 なんのための設備だろうと目を凝らしたそのとき、中央付近の小部屋に佇む暗闇の中にゆらりと何かの影が揺らめいた。

 ハッとした私は一度メガネを押し上げ、注意深くその影を注視する。


 確かに何かがいた。

 音も声も聞こえないし、動く様子もない。けれど床にうずくまった影がその呼吸に合わせて微かに蠢いている。

 

 頭蓋のどこかで知らない誰かが掠れた声で嬉しげに告げた。


 ―――― どうやら待ち望んでいた日がようやくやって来たみたいだ。

 

 次いで胸の奥に言い知れないざわつきが起こり、私はふとこのまま博士に背を向けて階段を駆け上がってしまいたい強烈な衝動に駆られた。

 けれどそれなのに私の踵はまるで釘を打ち付けられたみたいにその場から微塵たりとも動かなかった。そして罠に掛かった小動物のような恐怖に慄く私の鼓膜がリンデン博士の朗らかな声を拾う。


「どうだね、何か感想はないかな。他に気付いたこととか」


 声に目を向けると博士は健気な悪戯をした子供のように頬がほころぶのを必死にこらえているような表情をしている。

 その時点ですでに私は彼の目論見などとっくに見透かしてしまっていた。

 思わずため息を吐きそうになった。

 けれど私は心を鎮め、それから考えるようにひとつ間を置いた後、やや芝居掛かった素振りで彼が望んでいるはずの質問を向ける。

 本心を云えば尋ねたくはなかった。

 ガラス張りの小部屋で蠢いている小さな影。

 私はその何者かと絶対に向き合ってはならないのだという警鐘が頭蓋の中で乱反射していた。けれどこの期に及んではもはや私に選択肢などあるはずもなく、逃れる道など一条も残されていなかった。そして私の声はそんな葛藤に揺らめくこともなく、淡々とその正当な質問をなぞっていく。


「しかし、なぜガラス張りの陽圧無菌オペ室なのですか。まさか手術を誰かに見学させるお考えでも?」

 

 博士は意を得たりとばかりに大いに頷く。


「さすがはカイセだ。その通り、ここでは常に見学者に見守られながらオペを行うことができるのだよ」

「常に?」

「ああ、そうだ。だ」


 博士は私の訝しげな顔に微笑みを返し、それから右手の通路に向けて足を踏み出した。彼は手術室のガラス板にわざわざ爪を立て嫌な音を引き摺りながら進んでいく。

 そして角を曲がる際、博士は未だ足をその場に止めている私に微笑みを向け、手招きで着いてくるようにと促した。するとそれまで固まり着いていた私の靴底が魔法が解けたように床から離れ、そして自分の意思とは無関係に軽々とした足取りで博士のもとへと向かっていった。


 そこには幅一間ほどのガラス張りの独房のような小部屋が五室並んでいた。

 そして私たちが通り過ぎるそのいずれの部屋にも無言のまま床に跪く影があった。

 彼らが人間であることは間違いなかったが、濃い闇の中、それが男か女か、あるいは老若の判別すら難しかった。彼らは皆、黒い囚人服を纏っているようだった。また頭髪が綺麗に剃られた頭部が白く浮かび上がって、それがまるで切れかけた電球のように見えた。

 

 私たちはやがてその最奥にたどり着き、そこで足を止める。


「常々思ってはいたんだ。私の華麗な手術手技を助手であるキミ以外の誰かにも見て貰いたいものだと。そこで私は考えたんだ。ギャラリーに相応しい者は誰か。すると答えは自ずと明白になった。手術を受ける者にこそその権利が報酬として与えられるべきだとね。どうだカイセ、キミもそう思うだろう」


 その博士の顔には恍惚とした表情が浮かんでいた。それは怖気が走るほどに美しく、また思わず後退ってしまうほどに奇怪な笑みであった。

 要するにリンデン博士は被験者をこの独房に閉じ込め、そして自分たちの運命を見せつけることで恐怖に歪んでいくその表情を手術を行いながら余興のように愉しむつもりなのだろう。

 悪趣味にも程があるとさすがに私でも虫唾が走った。

 しかしながらここで博士の不興を買うわけにはいかない。おそらくはこれは彼の中にいる『あの方』が望んでいることでもあるはずなのだ。もし異を唱えるような発言をすれば私などいとも簡単に消し去られてしまうだろう。それは予感などという生優しいものではなく背骨を貫いた一本の確信の杭であった。

 込み上げてくるその激しい動揺をよそに私は平然とした様子で頷いていた。まるで自分の体が自分ではないように感じた。


「ええ、その通りだと思います。彼らは博士の手技を畏怖と尊敬の念を孕んだ眼差しで見つめるでしょう」


 自分のセリフに反吐が出そうになる。

 私はやはり平然としていた。それどころか薄い微笑まで顔に浮かべているようだった。思い返してみればもうそのときには私の人格はすでに肉体から乖離していたのかもしれない。


 博士の左手がすぐそばの壁に設置された丸いボタンに向けられた。

 そしてそこに人差し指を突き出し、けれど触れる直前でそれを止める。


「カイセ、キミは素晴らしい素質と謙虚さを兼ね備えている。けれどそれでもまだまだ『あの方』の器としては未熟だ。もっと成長すべきだよ。ここは私にとって崇高な目的を達成するための実験室であるが、同時にキミの育成のための場でもあるんだ。それが理解できているだろうか」


 その問いに私は無意識のまま頷いた。


「ふむ、ならば予定通り、キミにこのプレゼントを与えよう」


 博士の指先がボタンに触れた。

 すると照明が灯り、眩い光が全ての小部屋の闇を真っ白に反転させた。

 その瞬間、ガラスの向こうで床に座り込み上目遣いに怯えた瞳を私に向けている者の姿を目にした私は思わず瞠目し、やがて震える唇の先でこう呟いていた。


「…………聡一郎」

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