19-3

 リンデン博士は着任するにあたりいくつかの付帯条件を要求していた。

 そのうちの二点。

 収容所から適度に離れた場所に住居を新たに建築すること。

 またその建物の設計に自分も関わること。

 これらについては譲れないものとして党の上層部に訴えていたらしい。すると間もなく総統直々の通達が下され、強制労働の拠点となっているアウシュヴィッツ収容所と絶滅処理に特化したビルケナウ収容所の距離、その約三キロメートルのほぼ中間地点にあるちょっとした高台にヴィラが建設されることとなったのである。


 本来であればアウシュヴィッツ内に点在する高級住宅が充てがわれる予定であったが博士はそれを頑なに拒んだ。表向きの理由は S S 将校でもない自分が彼らと同じ扱いを受けるわけにはいかないという謙虚なもの。けれど実際は全くの真逆であんな下品で粗野で教養のない連中と同じ場所に居を構えるなど虫唾が走ると憤懣やる方ないといった様子で私には語っていた。

 とはいえ赴任前から着工していた建設は材料不足などの理由で思いのほか時間が掛かった。そして予定の工期を大幅に延長して本日、ようやく完成したというのが大まかな経緯だった。


「しかしこの程度の建材調達もままならないようでは戦況はずいぶん危ういね。二月にはスターリングラードでソ連軍に大敗北を喫したと聞くし、連合国による包囲網も次第に固まりつつある。まあ、よくもってあと二年というところか」


 夕食を終えて新築のヴィラへと向かう途中、メルセデスベンツ770を運転をする私に博士は淡々とその暗澹たる展望を明かした。ナチス政府の中枢部と深い関わりがある彼の元には統制をする前のそういう生の情報がいくつかの筋を伝って正確に届くようになっていた。

 知り合った当初、スパイの真似事のようなことをしていた私についてもその情報は彼に筒抜けであったらしい。ティアガルテンに移る前のことである。ディナーテーブルで対峙した博士は事も無げにこう言った。


「連絡係の男は始末させたよ。ま、日独伊防共協定を結んでいる以上、内偵とはいえ公に処分することはできないものでね。自動車事故による死亡ということで片付けることになった。またHerrヘル.九条、キミについては行方不明扱いにさせてもらったよ。すでに大学を通じて日本政府にはそう伝えている。そして私の専属秘書ということで適当な偽名と経歴を付けて党への戸籍登録も済ませた。つまりこれで晴れてキミは自由の身だ。もちろんということだが」


 否も応もなかった。

 私はあっという間に九条櫂世から別の見知らぬアジア人となり、同時にヴェルナー・リンデン博士という冷酷な天才のもとに繋がれることが決定していた。

 とはいえ、その処遇については私に異論などなかった。むしろ兄と外務省に繋がる視えざる糸を断ち切ってもらえたことは望外の幸運であり、また暫定的な己の身上扱いなども特に気にする必要もなかった。

 しかしながら私はそのとき柄にもなく内心では少しばかり慄いていた。


 この人物とともに過ごす自分がいったいどうなってしまうのか。


 胸の中に滑り堕ちていった黒い色の不安と懸念は後に彼の実験を目の当たりにし続けることにより次第に膨らみを増し、いまではもはや取り返しのつかない巨大な底なし沼となって私の中心部分でゆっくりとした渦を巻いている。


「まあ、とはいえまずは良しとしよう。これでまた至高の研究が再開できるわけだからね。きっとあの方もお喜びになる」


 含み笑いを隠そうと口許に拳を当てた博士が運転席の私を窺い見る。私は思わずハンドルを持つ手にギュッと力を込め、けれど無表情のまま頷いて見せた。


 月に照らされた青白く陰鬱な夜闇。

 ヘッドライトが切り取る道端の草むらとでこぼこな畦道。

 車一台がようやく通れるその道は深い雑木林に両側を挟まれている。

 深い轍にしばしばタイヤを滑らせつつも漆黒のメルセデスは力強く緩やかな丘を登っていく。やがて視線の先、まっすぐに続くその道の行く先に夜空に浮かんだ満月へ塔を突き刺すように聳え立つ建物が垣間見え、坂を登り終えると小ぶりで機能的な車回しを備えた地中海風のヴィラが現れた。室内には明かりが灯り、建物全体が仄かな光に包まれている。

 

「さあ、カイセ。ここが我々の拠点となる城だ」

 

 車を降りた博士は手差しをまじえてそう戯けると、そのまますこぶる上機嫌な足取りで真っ白な自然石が囲う玄関へと向かう。そして誘われるまま一歩立ち入ると、まるで貴族宮殿のような光景が私の目に映った。足下から扇形に広がっていくペルシャ絨毯。真っ白な壁に等間隔に架けられた燭台を模したいくつもの照明と神の断罪を訴えるいくつかの宗教画。見上げると吹き抜けが尖塔へと向かい、正面奥には螺旋を描いて昇る瀟洒な階段があった。

 簡素な住宅を想像していた私はしばし呆気に取られ、それからじんわりとした得心を胸に落とした。

 リンデン博士は時間が掛かり過ぎだと事あるごとに文句を口にしていたけれど、これではそれも仕方のないことであっただろう。いや、むしろこれほど豪奢な邸宅を丘の上に数ヶ月で建造するにはいったいどれほどの労力と犠牲が払われたのかと慮らずにはいられなかった。


「メイドと執事は合わせて五人。そのほか庭師などの使用人を含めれば八人。私の書斎と寝室は二階の東側に取っている。西側の部屋はキミが自由に使ってくれていい。これから見て回って適当に選んでくれ。そしてそれが済んだら……」


 エメラルド色の博士の瞳がきらりと光る。


「いよいよ今夜のメインディッシュをいただくとしようじゃないか」


 その戯れのセリフとともに博士の指が刺し示したのは螺旋階段下の空間だった。

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