19-2

 リンデン博士に与えられた職務は二つ。

 施設の一角に設けられた実験室の室長および労働者選抜の監督官というものであった。


 ナチスはこの巨大な収容所をユダヤ人やジプシーを絶滅させるために建造しておきながら、一方では彼らのような安価な労働力を常に欲していた。弾丸や砲弾、あるいは北方の侵攻する遠征軍に必要な大量の鍋釜など主に鋳物製造において、圧倒的にその工場と働き手が足りない状況に陥っていたのである。

 そこでアウシュヴィッツ近郊の都市クラクフなどで既存の工場を手に入れたナチス軍はそれを軍事物質の生産拠点として活用し、また施設に収容されたユダヤ人の中から選別された健康で技量に優れた者を労働力として充てることになった。ただ、その選別方法というのがかなり杜撰で、各々の工場長などから分配された人員についての苦情が度々上がっていた。


「選別された者の中にも労働力として使えない奴らが多数含まれているらしい。つまり選別基準が甘いんだ。そこでこれまでの責任者に尋ねてみると、どうやらほとんど年齢と性別、そして健康状態だけで選り分けていたというんだ。まあそれじゃあ、こういう結果になることは火を見るより明らかだっただろうね。なにせ一番重要なココの良し悪しを判別していないのだから」


 そう話しながらリンデン博士は自分のこめかみに指を当てる。

 

「そこで私は簡単な知能試験を採用することにした。体力テストや健康チェックをクリアしたグループに行わせるんだ。まあ、ユダヤ人はもともと知能の優れている者が多い。大部分は及第点以上だろうが、とはいえそうでない者もいる。その両者を選別することで労働力の質は格段に上がるだろう。監督官の方はとりあえずこれで行く。あとは上がってくる報告を検証して知能試験の難易度を微調整すればいい。その辺りは櫂世カイセに任せる。なにか問題があればその都度、私に相談してくれ」


 だだっ広い執務室の上等なソファに腰を沈めた彼はそう告げるとニヤリと唇の端を持ち上げた。私はその表情に訝しさを覚えながら、博士が所望した銘柄のブランデーをローテーブルに置く。そしておもむろに彼はこう切り出した。


「それともうひとつ、今日は私たちにとって素晴らしい報告がある」

「なんでしょうか」

 

 博士の嬉しげな声に私は禍々しいものを感じたが気が付かないフリを装い、さも興味津々といった風に首を傾げてみせる。


「憶えているだろう? ここに赴任してきて私が真っ先に事務官たちに要求したことを」


 やはり、それか。

 

 思わずため息を吐きそうになったが、かろうじて平然とした顔でやり過ごした私はすぐにやや芝居がかった感じで相槌を打った。


「ということは、ようやく完成したんですね、アレが」


 博士がブランデーグラスを手に満足そうに頷く。


「急がせたわりにずいぶん時間が掛かってしまったがね。それに物資不足のせいでとても完璧とは言い難いがある程度のクオリティーは保てたと思う。後で見に行くつもりなんだが、キミも一緒にどうだね、カイセ」


 私は直ちに同意した。

 たとえ意に反することであったとしてもそんな素振りを見せてはならない。


「お供させていただきます」


 するとリンデン博士は綺麗に整えられた口髭をそっと撫でて微笑む。


「きっと気にいるはずだ。そして実はキミにちょっとしたプレゼントもあるんだ。楽しみにしていてくれたまえ」


 正味、少し驚いた。

 これまでに博士からプレゼントというような名目の贈り物などされたことはなかった。もちろん彼から施されていたものは過分にあった。毎月の給与は彼自身の懐から出ているものであり、またティアガルテンでは博士が住んでいたヴィラの一室を間借りしていた。食事についても然り。さらに淡麗な容姿を引き立てるべく常に衣服や装飾品にも気を遣っている彼は私にも高級なスーツや腕時計などを頻繁に買い与えて身に着けさせた。おかげでアウシュヴィッツに移る際にはそのうちのどれを持って行くべきか少し迷ったほどだ。

 つまり生活の全てを彼に依存していたそんな私には博士があえてと位置付ける何かについてほとんど想像することすらできなかったのである。


 私は余程、戸惑った表情をしていたに違いない。

 博士はその私を一瞥するなり頬を緩ませ、再びブランデーグラスを傾けた。


「きっと気に入ってもらえると思うんだがね」

「あの、それって……」


 けれど質問は博士のよく通るテノールによって退けられた。


「ま、その前にディナーだ。今夜は地中海料理を用意させている。ワインは魚介によく合うシャルドネの白を開けよう」


 ソファから立ち上がった博士は朗らかにそういって私に意味ありげなウインクをしてみせた。どうしてだろうか、なんだかとても嫌な予感がした。


 アウシュヴィッツに赴任しておよそ二月ふたつきが過ぎようとしていた。

 それは足下の雪が消え、ようやく季節が春に差し掛かった頃のことであった。

 私は博士の秘書として日々雑務に追われ、あるいはその片手間に施設内医師が行う人体実験研究の手伝いをしていた。しかしながらその実験内容といえば大学にいた頃と似たり寄ったりで目新しいものはなく、特に自分に刺激を与えるようなものはなかった。変わったことといえば、博士が自分のことをファーストネームであるカイセと呼ぶようになったことぐらいだった。

 日々、何千人という人間が害虫のように処分されていくこの場所にあって、そのときの私はまだ少しばかりの人間性を保っていたように思う。


 けれど、すでに廃墟然としていたソレが一気に瓦解し始めたのはまさしくその夜のことであった。

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