KAISE 3 143 -
19-1
ポーランド。アウシュヴィッツ・ビルケナウ。
人類はその地に空前絶後の巨大絶滅収容所を建造した。
1943年、晩冬。
上層部が人事異動命令を発した数日後、ヴェルナー・リンデン博士と私はその場所に向かっていた。道中、博士は汽車の個室席でワイン片手にめずらしく愚痴を並べ立てる。
「総統ときたら何を考えているのだろうね、あんなところに我々を送り込むとは。知っているかい。あそこではね、一酸化炭素やツィクロンB(結晶性シアン化水素)なんていう殺虫剤を使ってユダヤ人たちを殺すんだ。彼らを裸にしてガス室にギュウギュウに詰め込み、それから数分。大量の死体が出来上がる。そういう本当に品性の欠片もない雑なやり方でね。なあ、どう思う、
どういう風に返せば博士の気が収まるのか分からないため、私はとりあえず無言のまま深く頷いて見せた。
「しかもだよ。その出来上がった死体がどうなるか知っているかい」
その問いに私は知らないふりをして首を横に振る。
すると博士は然もありなんと肩をすくめ、次いで眉間を寄せた。
「歯を抜くんだよ。金歯を取るためにね。女は頭髪も刈る。刈ってどうすると思う? 編んで甲板用のロープにするらしい。もちろん衣類や装飾品は売り捌かれる。どうだね、これじゃまるで盗賊と守銭奴のアジトじゃないか。私たちをそんな下卑た奴らがたむろする場所に配置するとは腹立たしい限りだよ、全く」
温厚な博士がそのように苛立ちを隠さないことはかなりめずらしかった。おそらくは余程、保健局の地下実験室を手放さなければならなかったことに憤懣を覚えていたのだろう。
「絶滅政策? 最終解決? ふん、バカバカしい。この世であの方に価値を見出される人間などほんのひとつまみしかいない。つまりそれが私やキミということさ。それ以外は押し並べて捕食される側なんだよ。私に云わせれば自分たちが優秀だと思い込んでいる傲慢なアーリア人種こそ絶滅した方がいい。ま、私もその人種のうちのひとりだが」
ワイングラスを傾けながら卑屈に自嘲する彼にいつもの聡明さは感じられなかった。
車窓の外は真っ白な雪に覆われた一面の荒野。あるいはひっそりとたたずむ黒い森と灰色の山肌。
停車する駅は少なく、どこまで行っても変わり映えのしない景色。
けれど時折、線路の傍に並び立つ一塊の群衆が見受けられた。
アウシュヴィッツへ輸送される途中のユダヤ人たちである。
貨車に詰め込まれた彼らは食料はおろか水さえも与えられずに数日間の輸送を強いられるらしい。だから真夏には脱水症状で多くの者が息絶え、この厳冬では凍死する者が後を経たないという。また後から来る列車があればその都度、通過待ちのために何時間でも線路脇の荒野に並び立たされるのだと聞いた。
私はそのどこまでも続く亡霊のように佇む人垣を特に感慨もない視線でなぞっていると無意識のうちに一人の少年に目が止まった。
彼は黒いハンチングを被り、ヨレヨレの上掛けを抱き締めるようにして震えていた。私たちの車両が通り過ぎようとしたそのとき、うつむいた顔が不意に持ち上がり、私と彼の視線がほんの一瞬だけ交錯した。私は少年の虚な瞳の中に喩えようのない澱んだ感情を見て取った。おそらくそれは本能的な生への執着であり、あるいは運命に抗うにはどうしようもなく矮小で無力な怒りの炎であったと思う。
私は思わず小さなため息を吐いた。
するとそれに気がついた博士が怪訝な目を向けて訊いた。
「どうしたんだね。まさか奴らに憐憫の情が湧いたなどと言わないでくれよ。せっかくのワインが不味くなる」
「いえ、もちろんそういうわけではありません。ただ昔のことを少々思い出したものですから」
そう答えると博士は全く胡散臭いとでも言いたそうな顔をしてから車窓の外に目線を向けた。
「ふむ、キミでも過去を懐かしんだりすることがあるのだね」
そして再び向き直るとその美しいエメラルド色の瞳を妖しく光らせた。
「しかしそんな回想など無意味だよ、
私は微かに首を傾げた。
するとその様子に彼は自分のこめかみに指を当て、含み笑いを低く響かせる。
「いや、今はまだ解らなくていい。けれどこれだけは覚えておいてくれ。実はね、あの御方もキミの今後については気にかけていらっしゃるんだ。だから決して失望させてしまうような無様な真似だけはしないで欲しい。もし、そんなことになったらキミだけでなく私の沽券にも拘るのだからね。肝に銘じておいてくれ給え」
そう言われても私にはやはりその言葉が何を意味しているのか、全く理解できなかった。けれどリンデン博士が崇めている『あの方』が自分のこれからの動向に注目しているというのであれば、私はやはりその意に沿った働きをするべきなのである。
私はリンデン博士の瞳の奥に潜む禍々しい何者かに向けてしっかりと頷いて見せた。
ティアガルテン四番地で過ごした三年半という月日の中で私が『あの方』についてリンデン博士に尋ねたことは一度もなかった。無論、興味がなかったわけではない。博士の中に棲むその恐ろしい何者かがどういう存在なのか。どんな能力を持ち、時折見せる凄まじい超常がどうして博士だけでなく私のためにも振るわれるのか。ただの余興なのか。それとも私を眷族のように看做して優遇しているのか。それなのになぜ姿も声も私には感じられないのか。
それらの一切合切を尋ねてみたい想いは常に持ち続けていたと思う。けれど私はそうしなかった。軽々しくそのような問いを向ければ『あの方』はきっとそれを不敬として、あるいは失望して私など即刻切り捨ててしまうだろう。そんな恐れと予感が積み重なり、いつしかそれは難攻不落の確信となって私の行動規範の一角を成していた。
私は網膜の奥深くで朧げに姿を成そうとしていた聡一郎の影を忙しなく掻き消し、それからしばらくの間、斜に降りしきる車窓の雪を見るともなく眺めていた。
列車がアウシュヴィッツ・ビルケナウの駅に到着したのはその日の夜半のことであった。
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