MUTSUKI 4
林の奥深くに隠された、ひっそりと佇むピラミッドを上から無理やり押し潰したような石積み。それを中心にしてそこだけスッポリと林が刈り取られたような小さな円形の広場。
父さんや姉さんには内緒で僕は足繁く、その場所に通った。
そこに行けばお母さんがこの世に残した気配のようなものをほんのちょっとだけ感じられる気がしていた。
お母さんのお墓はそこから石畳の小径を挟んで少し離れたところにある。石積みと教会のちょうど真ん中ぐらい。いつ行ってもお花畑みたいなその場所もお母さんは気に入っていた。いつだったか家族みんなでピクニックをしたこともあった。お母さんの身体もそこにある。エンバーミングされていたお母さん。僕はしばらくの間、埋葬されてもお母さんはずっとその綺麗な姿のままお墓の下で眠っているのだろうと思っていた。でも、あるとき調べてみるとそういう処理をしても遺体が姿を保てるのはせいぜい二ヶ月ほどだと分かった。それ以来、僕がお墓を訪れる機会は極端に減った。
土の中で肉や皮膚が溶けて骨と髪だけになってしまったお母さんを想像すると今でも胸の奥を誰かにギュッとつかまれてしまったように苦しくなる。そんな風になる自分はとても幼稚だし、変わっていると思う。未練がましいという言葉は僕のためにあるのかもしれない。
できれば僕だって姉さんのようにお母さんを過去として切り替えて前を向きたい。向きたかった。何度、そうしようと決心したか。お母さんだってきっとそうすることを望んでいるはず。そんな風に心を抑え込んで踏ん切りをつけようとした。でも結局、僕にはできなかった。
だからあれから五年経った今でも、僕は誰にも内緒でこの場所を訪れている。
僕とお母さんだけが知るこの秘密の場所に来て、普段心の奥にしまい込んでいるお母さんの記憶を取り出して眺める。まるでアニメで見た中世の異端思想者が物陰に隠れて禁忌目録に目を落とすように。
お母さんはここに来ると居着いている聖霊か幽霊が温かく包み込んでくれるような気がすると言っていた。微かに声も聞こえる。そしてとても気分が良くなるのだと。
もし本当にそういう存在があるのなら僕もその気配を感じてみたかった。いや、できることなら会話を交わしていくつか尋ねてみたかった。
あの頃のお母さんがどういう感情を持っていて、僕のことをどう思っていたのか。
そしてお母さんの魂が今、どこにあるのか……とか。
聖霊か幽霊の気配、けれどいつまで経っても僕にはそれが感じられない。
だからお母さんのことについて尋ねることもできない。
また幽霊はともかくとして精霊がどういうものなのか、それさえもよく分からない。ある時期の僕は幼いなりにそれを知ろうとして頻繁にインターネット検索をしたり、休みのたびに市立図書館を訪れたりしていた。
でも、結局のところはよく分からなかった。
聖霊とはキリスト教の経典に出てくるものなのだという。
だから、もちろん父さんや小雪さんに聞けばきっと丁寧に教えてくれると思う。
ただしそれはあの場所でお母さんが感じ取った聖霊とはまるっきり意味合いが異なるものだ。キリスト教にある聖霊というのはたぶん人の心の支えになる教えのことで、それに対してあの場所に棲んでいるかもしれないのは実体はなくとも確かにこの世界に存在するものなのだと思う。だから僕はそれを誰にも尋ねたりはしなかった。そしてお母さんが教えてくれた『精霊は自然が持つパワーが集まったもの』、その言葉だけを信じることにした。
ピラミッド状の石積み。
その一番上に載せられている白くて丸い石。
あの夏の日に僕がカブトムシの死骸を載せた石。
去年の秋の終わり、僕は偶然にもその石の周りで少し奇妙な現象が起きていることに気がついた。
やや風が強く、夏のしっぽを感じさせるそれまでの気怠い暖かさが嘘のように掻き消えて冬の影がいきなり色濃くなったその日、僕は石積みの端に腰を掛けてぼんやり空を眺めていた。
風が木立を深く舐めて通り過ぎていく。
その度に色づいた樹葉が盛大に剥がされ、魚眼レンズみたいな半球形の視野に満遍なく散り広がって落ちてくる。
お母さんがこの光景を見たらなんていうだろうか。
綺麗ね、と微笑むだろうか。
それとも少し切ないと寂しそうに笑うだろうか。
そんな他愛のないことを想像していた僕はそのうちに視界のすぐ真上で規則的に落ち葉が回転している場所があることに気がついた。
なんだろう……。
無秩序にハラハラと落下してくる無数の枯葉。
けれど僕の頭上、そこだけ葉っぱは小さな渦を巻いて空中に留まっている。
つむじ風にしてはやけにゆっくりとした回転だと感じた。
渦の流れをたどるとそれは緩やかな螺旋の周回を描きながら最後は白い石のもとで途切れている。
僕は立ち上がり、それから恐るおそる渦に右手を翳してみた。
「
指先に鋭い痛みを感じて手を引いた。見ると人差し指の腹に紙で切ったみたいな傷があり、そこに赤黒い血の粒が浮いている。
指先から再び目を移すと渦の流れが大きく曲がり僕の肩口へと擦り寄るように近づいていた。いつのまにかそれは大量の枯葉を巻き込んだ丸太ほどもある渦へと成長していた。
慄いた僕は思わず数歩後退った。すると風の渦はさらに鋭く曲がり、まるで触手を伸ばすように僕の体へと迫ってくる。枯葉と一緒に僕も呑み込まれてしまう。その恐怖で身体が硬直しそうだった。悲鳴も出ない。逃げ出そうと体を反転させた。
そのとき震えるような微かな声が僕の鼓膜の奥で響いた。
……いか……ないで。
駆け出そうとした僕の足が止まった。そしてひとつ唾を呑み込み、怯えた顔をゆっくりと振り返らせた。
渦はもとの場所に戻っていた。
そればかりか流れを目一杯に細らせて、もはや数枚の葉を頼りなさげに回転させる風渦はすぐにでも消滅してしまいそうに見えた。
「……誰、なの?」
恐怖感は消えていなかったけれど、好奇心がそれに勝ったのだと思う。ほとんど無意識のうちに僕はそう尋ねていた。
沈黙が続いた。
樹葉が風に揺れるざわざわとした不穏な音だけが辺りに満ち渡っていた。
しばらくして僕は二歩分だけ石積みへと足を戻し、そしていまにも消えてしまいそうな渦に問いを重ねた。
「……もしかして、聖霊なの?」
すると風渦の回転がたちまち勢いを増し、舞い降りてくる木の葉を巻き込み少し太った。その光景に僕は目を見開き、そして思わず両手の拳を強く握り締めた。
嬉しくて叫び出したい気分だった。
ようやく聖霊に出会えた。そればかりか声まで聞くことができた。
お母さんに近づくことができた。
そのとき、また鼓膜の奥で途切れ途切れの声が微かに響いた。
ち……ちが……ほしい。
「ち? ちって血のこと?」
頷くように渦が前倒しに曲がる。
指先に目を遣ると血液の粒は幾分色の濃さを増しながらもまだそこで形を保っていた。僕は少し考えた後、ためらいながらも人差し指を渦の方へと突き出してみた。また切られてしまうかもしれないと想像するととても怖かったけれど、それでも聖霊がこのまま消えてしまうよりはマシだと思えた。
指先に何かが触れた。
柔らかい布で優しく撫でるような、温かい舌先で舐めるようなそんな感触。
そして僕の血液の玉がフッと消える。
その途端、渦がぼうっと青白い光を纏った。
あ……りが……とう……。
鼓膜の奥、いや、僕の頭蓋の中で少しだけ力強さを取り戻したその声が響いた。
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