17-10

 Dr.ドクトル リンデンの内部に悍ましき何者かが巣食っていることは疑う余地がなかった。というのも彼の中に内包されているそれがまともではない奇跡をしばしば私に見せつけたからだ。


 たとえば博士は党の上級士官たちが使うレストランに私をよく連れて行った。

 店内には軍服を着た親衛隊エスエス将校が大勢たむろしていて、それぞれに葉巻や煙草の煙を燻らせながら大声で酒と弁舌を酌み交わし、あるいは侍らせた愛人や娼婦の体を抱き寄せては高らかに下卑た笑声を上げていた。けれど私たちが姿を見せるとその談笑は途端に影を潜め、暗い気配のする耳語と視線がそれに取って代わった。その不穏な雰囲気の中、博士は気にする様子もなく誘われたテーブルに着き、メニューを持ってきたウェイターにフランス産のワインを頼んだ。そして運ばれてきたグラスを傾けて芳香を嗅いで小さく頷き、それからほとんど口癖のようになっていたセリフを口にした。


「さて、それでは前菜の前にちょっとした余興を愉しむとしよう」

 

 そう呟くと彼は周囲に目線を配り、だいたいふた呼吸ほどで目星を付けて笑みを浮かべる。


「ふむ、今夜のキャストは彼だね」


 目顔を示されてその右手を見遣ると三席離れた壁際の丸テーブルに恰幅の良い中年将校と年若い婦人が着いていた。彼女は愛人だろうか。娼婦にしては上品なドレスを身に着けている。そのとき私の視線に気がついた将校は唇をわずかに歪め、煙を燻らせた葉巻とともに婦人に肩を近寄せ、何事かを囁いた。すると彼女は少し眉を顰め、それから口もとを軽く覆って含み笑いをした。

 おそらくは二人して私のことを蔑んでいるのだろう。彼らにとってアーリア人、もしくは白人以外は総じて自分たちよりずっと下等な人間なのである。よって同じ空間で食事を摂るなど言語道断といったところらしい。

 ただ私を引き連れているのが党の重鎮と目されているリンデン博士なのでおおっぴらに非難するわけにもいかない。そういった心情と葛藤がまざまざと透けて見えた。

 しかし私にとってそんなことはどうでも良かった。この国に来て以来、差別はいとまなく私を取り囲んでいた。けれどそれはただの蔑視であり、せいぜいあからさまな無視であり、実質的な害を被ることはほとんどなかった。むしろ人間関係に煩わされずに済むことは利点でさえあると考えていたほどだった。

 ただリンデン博士は違った。いや、正確には彼の中に存在する誰かがそれを許さなかったのかもしれない。忠実なしもべである私を蔑むということはすなわち自身をも貶める行為に他ならない。そう捉えていた節のある彼は折につけ、私に蔑視を向ける者に制裁を加えた。


「見ていてご覧。あの方が力を使うから」


 リンデン博士が嬉しげに表情を緩め、人差し指を立てたその刹那、部屋の照度が数ルクス下がった。だが異変を感じたのはけれど私だけのようで周囲の客は何事もないように食事と談笑を続けている。


 ……来る。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る