17-9

 ティアガルテン4番地。

 この場所に建てられたドイツ保健局の政策基盤は社会的ダーウィニズムと優生学を結合させたものであったと云える。それはつまり経済効率性を最重要視した保健政策であり、具体的には労働生産性のない障害者を殺害することを正当化したものであった。

 とはいえその思想自体は十九世紀末にはすでにある程度確立していたものの、それが容易く一般市民に受け入れられるはずもなく、1933年に発足したヒトラー独裁政権でさえ国民にはその実態を強固に秘匿した上で極秘裏に行っているという現状があった。

 リンデン博士はそのことについて私によく愚痴をこぼした。


「全くバカバカしいことだよ。そうは思わないか、Herr ヘル九条」


 そう言って差し出した彼の右手にサテンスキー血管鉗子を置いた私は無言で軽く頷いた。


「私に云わせればね、人間なんて特別な存在でもなんでもないんだ。所詮は畑の作物と変わらない。同じ時期、同じ土壌に種を撒いても順調に成長するものとそうでないものがあるだろう。その場合、取るべき手段はひとつだ。そう、間引くんだよ。上手く成長できないものは取り除く。そうしなければ真っ当に生育している作物までが足を引っ張られることになる。誰だって知っている。子供でも分かる理屈だよ。それなのにこの国の民はどうだね。理解力が無さ過ぎる、メッツェン」


 マスク越しのくぐもった声が次第に熱を帯びてくる。メッツェンバウム剪刀を手渡すとリンデン博士は脳梁繊維を慎重に剥離しながらさらにブツブツと続けた。


「しかもだ。その下らない国民の無知をあの偉大なる総統閣下が恐れているんだよ。信じられるかい、リングブルドックを」


 指示されたその屈曲した血管鉗子を器具台から摘み上げ、彼の手に載せるとそれは速やかに視床下部付近の脳血管を結紮した。そして再びメッツェンバウムを持ち、剥離を再開する。


「つまりね、日和っているわけだ。なんとも情けないことさ。それに実のところいくら噛み砕いて説いても総統閣下は私の持論の重要性がその半分程度しか理解できていないのだと思う。要するに彼も根っこは普通の人間なんだ。私やキミのように聡明ではないのさ。よし、切除しようか」


 私は頷き、滅菌綿棒とガーゼで術野の血液を丹念に拭き取る。

 その間にリンデン博士は剪刀をメスに持ち替え、首をポキポキと鳴らした。


「まあね、しかしそれも仕方のないことかもしれない。だってそうだろう。考えてみれば崇高な思想ほど一般人には理解し難いものなのだろうからね。たとえばこれにしても然りさ。俯瞰的に見て視床下部を部分切除して大罪モデルを作り出そうというこの実験が普通の人間に受け入れられるものとは到底思えない」


 白く柔らかい神経繊維の束をメス先が少しずつ掘っていく。そしてやがて切り分けられたパイのように視床下部の一部分が楔型に削り取られると彼はそこでふうっと小さな息を吐いた。


「ま、それに私だって無闇に暴徒の襲撃を受けるような真似はしたくない。だから今はこれで満足することにしているんだ、殊勝にもね。じゃあ血管断端を焼烙、結紮していこうか、モノポーラ」

「はい」


 私は背後に置かれたスパークギャップ式電気メスからペンシル型のデバイスを抜き取り、繋がったコードに注意を払いながらそれを博士に手渡した。すると彼はまるでメトロノームの針のようにそれを二、三度軽く振り、それから手術用ゴーグルの奥の目つきを柔和に細めて見せた。


「まあ、今はこれでいい。高尚な望みを具現化するためには雌伏の時もある程度は必要だろうからね」


 切断端に押し付けたモノポーラの先がジジジッと音を響かせ、か細い煙が断続的に立ち昇っていく。肉を焼く匂いが次第に濃度を増していく。その間に私は極細の絹糸をいくつか程良い長さに切り取り、大血管へと設置していく。


「よし、いいだろう。ブルドック外して確認」

「はい」


 私は新しい綿棒を取り切除部位を優しく丁寧に圧迫して出血の有無を確かめる。


「大丈夫です。出血ありません」

「じゃあ、残りの鉗子も回収して閉頭するよ」


 そこは保健局の地下に彼が特別に増設した手術室だった。

 また検体は著しい精神遅滞のある二十代の男性であり、本来ならば北方に広がる森の奥にある絶滅施設に送られるはずの彼は博士の選別とその指示によってここに据え置かれていた。


「これで彼は麗しき堕天使ベルゼブブの使徒となった。つまり満腹中枢神経叢を切り取られていとまなく採食できるようになるはずだ。暴食の大罪はこれにて現世に具現化されることとなる。禁断の功績がまたひとつ達成されたんだ。Herr ヘル九条、キミの貢献無くしては成し得なかったよ。ありがとう。心より感謝する」


 私は素早く縫合を進めながらゆるゆると首を振る。


「いえ、私などなにも……。Dr.ドクトルリンデン、貴方こそいつもながら敬服するべき完璧な手技でした」


「日本人は謙虚だね。しかしながらここでは謙遜は無用だ。なにしろここには私とキミ以外誰もいないのだからね。無論、人間はという意味だけれど。そろそろクロロフォルムの濃度を下げようか」


「はい」


 私は十五年ほど前に開発されたというドレーゲル製の吸入麻酔器に手をやり、言われた通り摘みを捻ってその濃度を下げる。


「ふふふ……喜び給え。あのお方もたいそう上機嫌だ。私の中にわすあのお方もね、キミは見どころがあると頷いておられる」


 最後のひと針を縫い終えたリンデン博士がマスクと手術帽を取るとそこに恍惚とした表情の美しい顔立ちが現れた。


「けれど少し残念がっておられる。もし出来うるならばHerr ヘル九条、私だけでなくキミの精神と肉体も傘下に収めたいところだ、とね。ククク……」


 深夜の地下手術室での会話はいつもこのようにして終息した。

 私はその度に曖昧な礼を述べ、そしてその婉曲な勧誘をやはり曖昧に辞しておいた。

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