17-11

 私がゴクリと喉を鳴らすと、ほとんど同時に博士の美しい顔立ちが夜叉のように歪む。そして怪しく歪んだ唇の先が何事かを小さく呟くと刹那、彼の背後に濃灰色の炎が立ち昇った。


 私は密かに背筋を総毛立てた。

 これがリンデン博士がと呼び崇めている者。


 黒い陽炎のようなそれは確かな形状を持たないにもかかわらず、禍々しく巨大な存在感によって私を一瞬にして凍りつかせた。

 目を合わせてはならない。

 不用意に動いてはならない。

 私は身の内で生まれたその警告に従い、軽く目蓋を伏せたまま握った両拳を静かに膝で揃える。


 ひとしきりその者は私を見詰め、それからおもむろに移動を始めた。

 音もなく、気配もなく、それはゆっくりと例のテーブルへと向かっていく。

 そして……。

 

 突然、低い唸り声が響き始めた。

 私は恐るおそる視線を上げ、声のする方を見遣る。

 すると信じがたいことに椅子から立ち上がった中年将校が自らの手で自分の首を締め上げていた。


「腕章は上下の金糸か。ふむ、一応は上級党員のようだが所詮はお目見え以下、ただの無能な豚だ。殺してしまっても別に問題ない。まあ、あのお方がどうするかは見守るしかないがね」


 博士の冷徹な判断に私は肯定も否定もせずただ男の挙動を目に捉え続けた。

 彼の顔色はすでに青黒く、口からは紫がかった舌をべろりと覗かせている。そして血走った目を目蓋からむき出し、誰かに助けを求めようとしているのかフラフラとテーブルのそばを歩き回り、隣席の婦人はその様子を見て悲鳴の漏れ出す口許を両手で塞いでいた。

 他の席の客もようやく異変に気がつき、騒めきとともに立ち上がった。

 ついに将校の膝が崩れた。

 そしてなおも苦しげに床を転げ回り、食堂全体が騒然となる。

 私は平静を装いながらも息を詰め目を瞠ってその光景を眺めた。

 その動揺に気が付いたのだろう。博士は軽く肩をすくめて元の爽やかな笑顔に戻っていく。


「まったく愚劣極まりない話だよ。対峙すればどちらが格上であるのか、獣にだって分かる気配が奴らにはてんで察知できないんだ。つまり私たちが高貴な狼で自分たちが無様に肥え太った豚であると認識できない。ま、とはいえ無能者である彼らをいまさら嘆いてみても仕方がないんだが、だからといって侮蔑されるのは少しばかり我慢がならない。そういう者は何人なんぴとたりとも許さないとあのお方はそう仰っているんだ。たとえそれが総統閣下だとしてもね」


 そう告げた彼を私はひとしきり見遣り、緩慢な動作で床を転がる男に目線を戻した。男の周りには人垣ができていた。手を差し伸べる者もいたが、ほとんどの人間はなすすべもないといった風に一様に表情を硬らせ立ち尽くしていた。

 私は余程表情を引き攣らせていたのだろうか。人垣の足許で顔色を土気色にして動きを止め、もはや虫の息となったその男を見つめていると不意に博士が尋ねた。


「ふむ、キミが寛大な心で愚かな彼を許すというのなら、日頃の献身に報いて事を納めてやってもいい。あのお方はそうも仰っているがどうする」


 そのとき私は一も二もなく頷いたと思う。

 なぜだろう、何かが違う気がした。

 もちろん呵責など覚えたわけではなかった。

 見知らぬ将校がこの場で死んだとしても、私には関わりのないことだった。けれどそこには言いようのないわだかまりがあった。

 理由をこじ付けるとすればその死は私の本意にそぐわなかったというのが妥当なところかもしれない。喩えればそれは母親が狩ってきた獲物を与えられる幼獣のような心持ちだった。またそれを素直に受け入れられないひねくれた自分に私は無性に腹を立てていたようにも思う。

 振り返ってみれば多分私は拗ねていたのだろう。そして博士が内包する誰かの圧倒的な力に羨望を抱いていたようだった。


 無言で小刻みに頷く私に博士は苦笑いを浮かべてパチンと指を鳴らした。

 すると人垣の向こうで布を切り裂くような音が一閃、鳴り響いた。

 それは突如口を開けた気道に細くたなびいた空気が滑り込んだ音だった。

 男はその金切りのような呼吸音を幾度か繰り返した後、おもむろに体を起こしかけ、次いで激しく咳き込み、さらに吐瀉物を盛大に床にぶちまけた。

 安堵と悲鳴、そして嘲笑を混ぜ合わせたような喧騒が沸き立ち、しばらくして中年将校は二人のウェイターに肩を持ち上げられ愛人に付き添われて店奥へと引き摺られていった。その背中を追っていく私の目線を嗜めるように博士がワイングラスを軽く指で弾いた。澄んだ音に振り返ると彼はその美しい顔立ちをわずかに歪めた。


「彼らの愚劣さをいくら嘆いても無駄なことだが、キミは別だよ。もちろんキミがあの豚に同情などというくだらない配慮をしているとは思わないが、自分の中に築かれた無駄な障壁を未だ取り除けていないことも事実だろう。私にはそれがとても残念でならない。なるべく早くその垣根を取り払いなさい。そして成長しなさい。そうでなければもうすぐ催される祭典を心から愉しめない。いいかい、己の心を最大限に解放してやるんだ。キミにはそれができる。だってキミは私とあの方がようやく見つけた貴重な後継者なのだからね。そのことをしっかりと自覚するように。分かったね、Herrヘル.九条、いやカイセ」


 戸惑いながらも私は頷くしかなかった。

 彼とその内包する禍々しい誰かの前にその頃の私は無力な幼獣でしかなかった。

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