17-4

 私は疑問に感じていた。


 死体はすべからくその内に微細な生の波動を保ち続けているというのに私以外の誰にもそれが感じ取れていないということに。

 とはいえそれが自分だけに与えられた感知能力によるものであると薄々勘づいてはいた。遺体と対峙するたび、その萎れかけた肉体から発せられる微かな波。

 それは喩えれば静寂の森の奥から微かに聞こえてくる野鳥の囀りに少し似ていた。

 あるいは鏡のように真っさらな湖面を一陣の風が揺らすその音のようにも思えた。

 いずれにせよどのような遺体もその微弱なパルスを常に放ち続けている。

 耳を澄ませて集中すれば私はそれを容易に感じ取ることができた。

 また私は知っていた。

 死にゆく際、どのような生き物もその寸前まで抱いていたすべてのものが凝縮され鉱石となって遺骸のどこかに隠匿されるということを。

 幼少の頃、目の当たりにした使用人の足に踏み殺されたネズミ。

 手にしたナイフで首を裂いた鴨や養鶏場から買い取ったヒヨコたち。

 生が死に切り替わる瞬間に感じるあの目眩くような興奮と壮麗さはその結晶化の副産物であると私は信じていた。そして遺体が滅しない限り結晶はどこかにあり続け、誰かに見つけ出されるのを待っている、そんな風に思えてならなかった。

 だから私は医学生時代からどんな時も細心の注意を払って遺体と向き合うように心掛けていた。私が想像するにその貴重な鉱石は少しでも雑に扱えばたちまち割れて無に帰してしまう繊細で脆いガラス細工のようなものであり、それを見つけ出せたことは一度もなかったものの、解剖中にそのきざしに似た感触を得たことは幾度かあった。

 たとえばそれは胸骨を鋸で切り、数本の肋骨を引き開いて曝け出された胸腔、心膜と肺葉の隙間に。

 たとえばそれはすべての腸管と子宮や膀胱を取り除いた背後に広がる後腹膜に浮く椎体に沿って。

 たとえばそれは頭蓋骨と硬膜を取り除くと露わになる脳漿の縦隔、あるいは下垂体や小脳へと続く脳梁のはざまに。

 不意を突いて現れるその鉱石の気配に私はその都度、胸を高鳴らせた。そして止めどない興奮に指先をつい狂わせては見失ってしまうのが常であった。

 そんなとき私は内心、歯噛みをして自分の不手際と未熟さを呪った。そして次こそはと昏い雪辱を誓うことも忘れなかった。

 もしその石を無事に取り出すことができれば、私は別の何者かに生まれ変われる、そんな得体の知れない予感があった。それがどのような結末を産み出そうとも知ったことではなかった。とにかく当時の私は私以外の何者かになれることを欲していたように思う。

 だからたとえ腰が軋み脂汗をかくほど遺体の重さが耐え難いものだったとしても、私は同僚や補助員が入室してくる前に解剖体を台に移し替え、全ての準備を終えて待つことを選んだ。


 納体袋のジッパーを下げるとホルマリンの臭いが鼻を突く。

 皮膚を指で押すと冷たい粘土のような感触を返してくる。

 そして袋を取り去り、台上に仰向けに寝かせたその青白い遺体を心なく見つめているとなぜかそれが聡一郎になることがあった。

 表皮が削がれた頬が歪みあどけなく笑う。

 毛髪が剃られた頭皮から一瞬にして黒々とした髪が生える。

 陽気な声が鼓膜の奥に響く。

 そして聡一郎になった遺体が解剖台の上でゆっくりと体を起こす。


 なあ、九条さん。

 僕、いつの間に死んでしもうたんやろ。


 黙ってそれをただ見つめているとやがて聡一郎は火に溶ける蝋のように崩れ去り、ただの外国人の遺体へと姿を戻した。

 そんなとき私はいつも深く長く細いため息をひとつだけ吐いた。

 考えてみれば、おそらくそれは自分への戒めのようなものだったのだろう。

 そして言い換えればその聡一郎の幻影こそが矮小ながらかけがえの無い私の良心そのものであったのかも知れない。

 

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