17-5

 瞬く間に一年が過ぎた。

 それから再び次の冬が訪れようとしていたが、私は留学した当初とまるで変わらない判で押したような日常をたどっていた。

 つまり大学とヴォーヌングアパート、それを結ぶ道筋、そして時折、指示を受けて訪れる安酒場だけが私が介在するほとんど全ての場所であった。

 また解剖作業中の事務的な言葉のやり取りだけが私にとって唯一の他人との会話だった。当初は東洋人という物珍しさに声をかけてくる者も少なからずいたが、終始仏頂面で必要最小限の返答しかしない私に(しかも聞き取れなくはないものの辿々しいドイツ語で)皆、愛想を尽かしたのだろう。そのうちに誰も話しかけてこなくなった。しかしながらそれはむしろ望むべき状況だった。そもそも私にとって人との会話など億劫なだけの代物であり、孤独は常に最良で快適な居場所であった。


 ただじっとして何もしないでいると不意に聡一郎の幻影が現れることがあった。

 朝靄に霞む通学路、夕暮れ時の学食、シングルベッドに身体を横たえたその瞬間。

 油断すると聡一郎はその隙を突いてどこからともなく現れ、そしていつも好奇心に満ちた顔つきで尋ねてきた。


 なあ、九条さん。

 僕、いつの間に死んでしもうたんやろ。


 繰り返されるその同じ質問に私はついぞ答えることはなかった。

 それどころか聡一郎の幻影を一度たりともまともに見つめたこともなかったと思う。聡一郎は私にとって忘れるべき、というより存在していてはならない過去であった。

 

 ある日の朝、大学へと向かう途中にあるシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が黒煙を上げて燃えていた。また通りにある商店のいくつかの窓ガラスやショーウインドウが割られその破片が道路に散らばっている様子も見えた。そして普段はほとんどひとけのない早朝の街に軍人の姿がちらほらとあった。

 ただならぬ様子に自然足が止まり、建物の内部で燻る炎を眺めていると腕に鉤十字の腕章を着けて銃剣を携えた三人のS A突撃隊の兵士が早足に駆け寄りつっけんどんな様子で身分証明書を出せと命じた。肩下げのバッグから旅券を取り出すと彼らの一人が私が手渡す前に洟を啜りながらそれを奪い取った。そして訝しむ表情でそれをひとしきり検分し、それから口許に嫌味に満ちた嘲笑を浮かべた。


「ふん、なんだ日本人ヤパーニッシュか」


 頷くとその兵士は旅券を返しながらせせら笑い、次いで軽口を叩いた。


「ところで日本人は皆、頭に犬のくそを載せていると聞いたがお前もそうなのか」


 そのくだらない冗談に残りの二人は同時に吹き出し、また笑いながら銃剣を私に向けて帽子を取れと命令する。おそらく丁髷のことを言っているのだろうと予想が付いたがそれを説明するのも煩わしいし、また余計な諍いも避けたい私は素直に耳当て付きの防寒帽を取って見せた。すると兵士たちはポマードを撫でつけた私の頭髪をジロジロと眺めてはやや残念そうに笑いながら「糞ではないのか」「お前、嗅いでみろよ」などとお互いを肘で突きふざけあっていた。

 その間もシナゴーグは壊された扉と散りばめられたガラス破片の向こうにチロチロと蛇の舌のような炎を燃やし、上空に真っ黒な煙をたなびかせていた。


 それが私の目に映った『水晶の夜』と呼ばれるユダヤ人迫害暴動であった。

 無惨に割られた窓ガラスが破片が街灯に照らされキラキラと美しく輝いたこの夜、ナチスドイツはホロコーストに向けてゆっくりと動き出したといえる。


 ユダヤ人迫害の歴史を紐解けば古く根深い。

 イエス・キリストを磔刑に至らしめたユダヤ教高位官による謀略が端緒であることは言を俟たないにしても、そればかりが迫害の要因ではないだろう。何度打ちのめされても連綿と受け継がれる商才と気骨によって立ち上がり、やがては世界を席巻していくユダヤ人たちへの恐怖と嫉妬の蓄積がおそらくはその真の動因であるように思える。

 とはいえ私にとって暴動の理由などなんの意味もなさないものであったし、以降ユダヤ人たちがゲットー(ユダヤ人たちが強制的に居住を指定された地域)に閉じ込められたり、あらゆる人権を取り上げられたことにも感慨を抱いたわけではなかった。けれどそれにより私の行く末が少しずつさらに捻じ曲げられ、禍々しい深淵へと向かい始めたことに疑いはない。

 当時の私にはそれを知る由などなかったにせよ……。 

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