17-3

 私に与えられた住居は大学から程近い通りにある古いヴォーヌング(アパート)の一室だった。

 めぼしい家具といえば据えられていた木製ベッドだけという殺風景な部屋。

 そこで私は毎朝六時に目覚め、硬いライ麦パンを齧り、次いでそれを水で胃の腑に流し込んだ。私にとっての食事は単なる生命活動を維持するための栄養補給であり味や食感などに一切の頓着はなかった。朝はその買い置きのライ麦パンのみ、昼はなく、夜はメンザと呼ばれる学生食堂の定番である脂っこいシュニッツェル(ドイツ風トンカツ)ばかり食べていた。

 適当に身支度を整えると私は草臥くたびれた黒皮の鞄を肩に掛けてその部屋を後にした。そしてひと気のない街路をいくばくか歩き、正門をくぐり、やはり誰の姿もない早朝の構内を抜けて解剖棟まで足を運んだ。それから段を降りるにつれホルマリンの臭いが増していく地下へと通ずる薄暗い階段を降りた。そして灯りの乏しい廊下にコツコツと冷たい靴音を刻みつつ一般学生には秘匿された解剖室の前に辿り着き、懐からおもむろに鍵を取り出して鍵穴へと差し込んだ。すると毎回、場違いに騒々しい金属音を響かせてドアは開いた。


 入室した私はまず床全面をモップで丁寧に拭き上げ、次いで解剖器具のチェックを行った。

 特に刃物類は入念に確認した。前日の洗浄が不十分であると刃面に脂肪が薄く残り、光を当てるとぬらぬらとした膜が見えた。そういう刃はやはり切れ味が悪く、重要な器官を剥離する際に組織を傷つけてしまったり、あるいは余計な時間がかかってしまうことになるのでもう一度洗浄することにしていた。そのように杜撰に管理された器具で切り裂かれる死者のことを考えると私にはそれが許されざる冒瀆に思えて仕方がなかったのだ。

 器材の確認を終えた私の次の仕事は保管室から解剖体(遺体)を取り出し、解剖台に移し替えることであった。ひとつの解剖体を捌き終える日数は短くても三日、長いものであれば七日ほどを要する。その間、ホルマリン処理された遺体は納体袋ライヘバッグに入れられ隣の保管室に入れられていた。

 本来ならば単身で行う作業ではない。

 解剖体は成人であることがほとんどで場合によっては私よりも大柄な人物であることも多々あり、当然ながらその重量もなかなか一人で抱きかかえられるものではなかったからだ。また時間になればやって来る他の解剖助手や補助員の手を借りれば済むので普通に考えればそれを待っている方がはるかに得策でもある。しかしヘラヘラと無駄話に花を咲かせながら遺体をぞんざいに扱う彼らの様子を目の当たりにしてしまうと、私にはそれがどうにも受け入れ難く舌打ちが堪え切れないこともしばしばあった。

 しかしながらそのように思えてしまう理由は私自身にもよく理解できていなかった。

 当然のことであるが教授がしばしば口にする死者に対する敬意などという小賢しいモラルを主張するつもりは毛頭なかった。

 死者は死者だ。

 死んでしまえばただ一塊の肉である。

 つまり活動を止めた組織に過ぎない。

 それに対して倫理も道徳もあったものか。

 同僚たちが教授の目のないところでヒソヒソと公言するその概念について特に異論を持っていたわけではない。


 そういうことではなかった。

 私から見れば教授も同僚たちもただ死体を見下しているようにしか見えなかったのである。

 死んでしまった者にはもう何も残されていない。また放っておけば遺骸はやがてみっともなく腐臭を撒き散らしながら汚らしい泥となるしかない。だからせめて解剖によってその有益性を見出してやるのだ、

 彼らは物言わぬ遺体を前に自分たちがしがみつく生を掲げて優越感に浸る滑稽なドン・キホーテに過ぎない。少なくとも私はそう感じずにはいられなかった。そういう意味では解剖前に神妙な顔つきで敬意とか感謝などというあからさまに表在的な言葉を口にする教授より、正直に遺体を卑下する言葉を吐く同僚たちの方がまだマシであると思えていたかもしれない。

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