17-2

 私の留学先はベルリンにあるシャリテ医科大学だった。

 16世紀にペストの隔離病院として端を緒し、17世紀初めに医学教育機関となったその大学は医学史に革命的な功績を連綿と刻み続ける世界的に知られた伝統ある名門学府であった。たとえば近代病理学の父ルドルフ・フィルヒョウ、結核やコレラの原因を突き止めたロベルト・コッホ、ジフテリアの解毒剤を発見したエミール・アドルフ・フォン・ベーリングなど、シャリテ医科大学にかつて籍を置いた著名な医学者は枚挙に遑がない。

 またそれまでに留学を許された日本人には破傷風菌の純粋培養に成功した北里柴三郎や陸軍軍医でありながら優れた作家でもあった森鴎外など。

 特筆する実績も論文も持たない日本の地方大学出身の医学生など本来ならば留学を希望したところで到底歯牙にも掛けられないはずのそんな名門中の名門に私が籍を置くことが許されたのはやはり時代と国家権力の傘が大きく影響していたのだと思う。

 当時、アドルフ・ヒトラー率いる国民社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチ党はすでにドイツ国内の主要な公立病院や医学教育機関などをすべからく掌握しており、また医学研究者などの多くがナチス党員として活動していた。シャリテ医科大学もその例外ではなく、最先端医療機関の責務を維持する傍ら、ナチスの軍事医学研究所としての機能も同時に果たしていた。

 

 私が在籍したのは当然ながら解剖学教室だった。

 留学生として最初に私に与えられた課題は『各種薬剤の投与により安楽死を施された肉体の解剖学的特徴』。これは断種政策の一端として行われた実験研究で使用した薬物によって人間の脳や臓器、あるいは組織全体にどのような変化が起こるかを調べるための謂わば人体実験の奔りであった。けれどそれは後にニュルンベルクコードと呼ばれ、大量虐殺として裁かれるものとは少し色合いが違っていたかもしれない。というのも実験に供される人間のほとんどは精神遅滞者や肉体的不具者、あるいはアルコール中毒患者や末期的疾患患者のものであり、いわば社会経済的浪費者を根絶やしにするための死刑の一環として行われた安楽死実験であったからである。

 第一次世界大戦敗北により生じた膨大な賠償金と世界的大恐慌の煽りをまともに受けた当時のドイツは歴史的な貧困に喘いでおり、その荒廃した経済を立て直すべくヒトラーは非生産的な人間を間引くことに主眼に置いた。それによりドイツ衛生局は国内の医師たちに予てからの優生思想を再惹起させた上で非労働者をトリアージさせ、間引かれた人間は治療や矯正を名目にして隔離施設へと移されたのである。

 そして云うまでもなくそこは患者を救うための病舎などではなく、最終淘汰をすることを真の目的とした施設であった。

 

 しかしながら当時はナチスドイツとはいえ非人道的な人体実験はまだあまり公にはなされておらず、その秘匿性により身元の確かな党員以外は関われないものであった。故に一介の留学生である私が末席とはいえそのような胡乱な研究グループにいきなり配属された理由の裏にはおそらく長兄、あるいは外務省による何らかの工作があったに違いなく、つまりナチ党の上層部あたりに多額の賄賂が渡ったことは想像に難くなかった。あるいは両国がすでに三国同盟に向けて歩み寄りを始めていたため、融通を利かせられたのかもしれない。おそらくはその両方であったと推察されるが、ただ末端の手駒に過ぎない私にその絡繰りや真相が明らかにされるはずもなく、それにもちろん知るべきことでもなかった。


 私は毎日研究室に通い詰め、解剖助手を務め、その研究結果を論文にしたためた。また指示された通りに月に何度か裏路地にある薄汚い安酒場を訪れ、軍事などに有効利用できると考えられる事項をまとめた文書を密偵に手渡した。

 それは思ったほど悪くはない日常だった。

 アーリア人至上主義の国では極東のアジア人など街中をうろつく野良犬と大差ない酷い差別を受けるだろうと半ば抱いていたその覚悟は結局肩透かしに終わった。

 どんな雑用でも文句ひとつ言わずに引き受ける私は周囲の人間たちに無愛想だが便利な存在だと認識されたのかもしれない。

 案外、ドイツ人に引けを取らない無駄に高い身長が功を奏した可能性があった。

 もしくは学生時代に身につけた片言のドイツ語が予想以上に通じたせいだったのだろうか。

 とにかく相も変わらず孤独ではあったものの、異国での私を取り巻く環境は拍子抜けするほど穏やかなものだったと思う。

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