KAISE 2 117-128

17-1

 卒業した私は医学留学を名目としてベルリンへと旅立った。

 それはその頃すでに外務省事務次官の地位にあった長兄の指図でもあった。


 ―――― ナチスドイツが行っている生物医学的実験とその軍事利用価値について極秘裏に報告を送れ。


 いわゆる機密スパイの命を帯びた渡航である。

 時は後に二・二六事件と銘打たれるクーデター不首尾の後。

 軍事ファッショ化を図る統制派で頭角を現していた兄は使えるものならなんでも使うという理念に基づき、異物と嫌悪する私をも味方に引き入れようと偽りの寛容を携えて会食をもてなした。


「どうだ、行ってくれるか」


 うつむき加減でしばらく黙っていると兄が左手のフォークで皿をチンと打ち鳴らした。


「おいおい、そう難しく考えるなよ。お前はの国でただ研究に没頭していればいいだけの話だ。それを簡単な報告書にしたため、ひと月に一度か二度、向こうの通信員に手渡す。無論、お前自身に危険が及ぶことはない。その手筈はすでに以前から確立、運用されているものなのだからな」


 私は上目遣いに兄をチラリと見遣った。

 すると彼はその視線を待っていたようにニヤリと不遜な笑みを唇の端に浮かべる。


「櫂世、ちょっと小耳に挟んだんだが、どうやら親父はお前への財産分与は考えていないらしいぞ」


 次いで呆れたように肩をすくめ、便宜上少しだけ眉をひそめた。


「まあ、当然といえば当然か。親父はああ見えて倹約家だからな。妾の子なら大学まで出してやれば十分お役御免ということだろう。つまり医大を卒業すればもうお前の懐には九条家からの金は鐚一文びたいちもん入らない、とまあそういうわけだ。で、時に櫂世、卒業後はどうするつもりなんだ」


 私はやや首を傾げながら取り留めもない調子で答える。


「いえ、まだ決めていませんが、おそらく研究員として大学に残ることに……」

「研究員? お前なあ、雀の涙ほどの給金でどうやって暮らしていくっていうんだよ」


 思った通り兄は鼻で嗤った。


「いえ、宿舎もあてがわれますし、自分一人ならなんとか」

「ふん、やめておけ、やめておけ、そんなしみったれたこと」


 兄は渋い顔をして手にしたフォークを左右に振るとそれからスッと身を乗り出してしたり顔を向けた。

 

「それに同じ研究なら独逸ドイツでやればいいじゃないか。医学の質もあっちが数段上だろうし、なにせ留学費用は全て外務省持ちだ。それに加えて功績が認められれば帰国後には軍医少監(後の少佐)に任命される可能性もある。な、悪い話ではないだろう。いや、それどころか汚名返上のいい機会じゃないか。そうなればきっと親父だけでなく九条家の者たち全員がお前を見直すだろうよ」


 私は再び視線を膝下に落とし、どこか嘲笑が混じる兄の熱弁を白々しく聞いていた。

 家のことなどどうでも良かった。むしろ金と権威の亡者どもが巣食う九条家など、こちらから断絶してやりたかった。

 また正直なところ、卒業後の身の振り方など全く頭になかった。

 以前、あれほどまでに心が揺さぶられていた解剖学にさえ私はほとんど興味を覚えなくなっていた。

 何もかも無目的に過ぎていく日々。

 味気ないと感じることさえない、まるで空気に溶け込んで消えていくような時間。

 授業を受け、実習に取り組み、夜更けまで復習を行い、日が昇ればまた正体のない誰かに操られるように学校に向かう。

 聡一郎が死んだ後、私はそんな風に惰性のまま医大と下宿を往復するだけの毎日を送り続け、やがて卒業を間近に控えていた。

 

 時折、不意に虚な網膜の裏に聡一郎の姿が鮮明に閃くことがあった。


 なあ、九条さん、なんで人間は空気を吸わんと生きられんのやろなあ。

 なあ、九条さん、なんで血は赤いんやろか。血管は青いのになあ。

 なあ、九条さん、なんで……なんで……なんで……。


 血の気の薄い真っ白な顔に浮かべた好奇心旺盛な笑み。

 鼓膜の奥で快活に響く聡一郎の嬉しげな問い掛け。


 そんなとき私は目蓋を硬く閉じ、両手を耳に強く押し当て呻き声を立てた。


 消えろ、消えろ、消えてくれ……。

 

 蒙昧な呪禁の如く喉の奥で何度もそう呟くと、聡一郎は少し寂しげな顔になってやがてふっつりと姿を消した。

 すると直後、決まって耐え難い虚脱感が津波のように押し寄せた。

 そしてそれは後悔とも疑問とも付かない灰色の煙となっていつまでも漂い続ける。


 いったいどうすれば良かったというのだろう。


 聡一郎は荼毘に付されたあと、近所の墓地に埋葬された。

 私は葬式の時に焼香を上げたきり、一度もその墓に出向くことはなかった。

 一人きりで墓前に座り手を合わせるなど、そんなことをすれば自分が自分でなくなってしまうような気がしてそこはかとなく恐ろしかった。

 けれどその一方で学校からの帰り道、例の古本屋の前で立ち止まって店頭に並べられた児童書をぼんやり見つめている自分に気がつき動揺することが間々あった。


 これは聡一郎に対する未練なのだろうか。

 私はそれほどまでに聡一郎に執着してしまっていたのだろうか。


 もしかすると私は彼の死を……哀しむべきなのではないだろうか。

 

 その断案に帰着する度、私は激しく首を振った。


 感情などという下らないものに囚われるべきではない。

 違う。私が成すべきことはそんな瑣末なものではない。

 私は……私は……。


 ―――― チン


 再び皿が打ち鳴らされ、その余韻に私はようやく自戒から解放される。


「どうだ、櫂世。行ってくれるよな。日本皇国のために。そしてなにより九条家のために」


 いつのまにか私は頷いていた。

 感慨も気概も何もなかった。

 国も家もそんなものはどうでも良かった。

 ただ私にとってその提案がなかなかの魅力的な逃避に思えただけだった。

 遥か遠く、見知らぬ国の土地を踏めばもしかすると私はまた新たな人間として生まれ変われるのではないか。

 あるいは聡一郎のことなど完全に忘れて、感情など頑強に認めない素の自分に戻れるのではないか。

 そんな淡やかな期待のいくつかが私の胸に小さな明かりを灯しただけだった。

 

 長兄は似合わない口髭を嬉しそうに繰り返し捻り、そして再びフォークで皿をチンチンと打った。


「良し。そうと決まれば明日にでも申請する。出立の期日は近いうちに知らせるからいつでも発てるように準備をしておけよ」 


 そして兄は賄いに贔屓のブランデーを持ってくるようにと早口で言伝てた。


 以前から司法省はナチス法を支持しており、ヒトラー率いるドイツと日本はすでに友好な関係にあったため私の留学に対する障壁はほとんどなく、それは早々に認められた。

 

 ほどなく私はドイツへ向けて旅立った。


 その道筋があの凶悪なモンスターとの出会いへと繋がっているとも知らずに。

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