16-9

 たちまち夕暮れが訪れたように辺りが薄暗くなった。

 ハッとして見上げると空には幾重にも重ねられたベールのような漆黒の雲がゆったりと波打っている。

 そのときミシャが早口で何かを唱えた。

 それは日本語ではなかった。いや、地球上にあるどの言語でもなかったかもしれない。不思議な韻と抑揚が連なるそれは神々が交わす未知の言葉のように聞こえた。

 するとそれに呼応するように天空の雲が裂け、そこから一筋の青白い閃光が地表に向けてまっすぐに差し込んでくる。

 一瞬にして仄暗い世界が真っ白に明転した。

 そのあまりの眩さに反射的に目蓋をギュッと閉じると、再びミシャが不思議な言葉を呟く。

 梵鐘のような鐘の音がひとつふたつと重く響き渡った。

 同時に目蓋の裏の光が急速に薄らいでいく。そして恐るおそる目を開くといつのまにかミシャの光玉は消え、代わりに天空から地上へとまっすぐに突き刺された光柱の中に少年たちはいた。

 彼らは皆、戸惑いつつも安らいだ表情を浮かべていた。

 また互いにその顔を見合わせて何かを囁きあっていた。

 その声までは耳に届かなかった。しかし少年たちが浮かべた屈託のない笑みからは不安や懸念などは微塵も感じ取れず、俺はそっと胸を撫で下ろした。

 それはとても邪神が創出したとは思えない穏やかで優しげな光景だった。

 ふと見遣ると光の向こうでは尻餅を着いたカイセが呆然とした顔で口を半開きにしている。ミシャはその無様な姿を尻目に唇の端を歪め、それから三度、神々の言語を呟いた。

 すると言葉尻に微かに聞き取れた言葉があった。

 

「では行くが良い……其方たちの父母も待っておるはずじゃ」

 

 声が途切れるや否や、黄金色をした無数のオーヴが現れて少年たちを取り囲んだ。

 そして再び鐘の音が響き渡りそれぞれのオーヴが眩むような燦きを放ったかと思うと、やがて弾けて細かな塵のようになって少年たち共々跡形もなく消えていった。

 鐘の音の余韻が鼓膜の奥で微かに反響を繰り返す中、薄闇が明けてもとの白日となっていく。

 その不意に訪れた静寂の中で俺はカイセの死海を討ち払う直前にミシャが口にした言葉を思い返していた。

 それはまだ耳に残っている『もう少し分取っておきたかったが……』というセリフ。

 ミシャは明確な意図を持って三人の少年たちを暗黒の海から引き摺り出したに違いなかった。おそらくミシャは子供たちを救い出すチャンスを得るためにあえて俺をギリギリまで危険に晒すことを承知でカイセの奥義を受けたのだろう。

 つまりミシャも少年たちを憐れんで……。

 するとその憶測が漏れ聞こえてしまったのか、ミシャが矢庭に不機嫌な声で取り繕った。


『こら、うつけ、今のはあくまでも彼奴あやつが戯言を云うた罰である。仕置きなのじゃ。勘違いするでないわ、馬鹿者』


 いつも通りの罵倒がどこか言い訳じみて聞こえた。


『……ふうん、もしかしてミシャ照れてるのか』

『そ、そんなわけあるまい。黙っておれ、この痴れ者めが!』


 焦りの言葉に続いて顔が熱った。

 その様子に俺はほくそ笑み、そして心のうちで敬礼する。


 確かにミシャはこの世界を冷徹に睥睨している。

 またその言動はスイーツを好む以外はもっぱら血も涙もない邪神そのものである。

 人間など所詮は虫ケラ。

 千年を生きてもその命や運命など露ほどにも気にかけたことは皆無だと自慢げに嗤うし、また本来の棲家である天獄から抜け出してまで現世に居座るのは決して人間を悪霊や災厄から護るためなどではなく強敵との戦いを求めてのことである。そのためならば人間などいくらでも犠牲にすると公言して憚らない。

 しかしそれが真意の全てではないことはこの身体を共有する俺には嫌が応にも分かってしまう。いや、それ以上に感じるのだ。

 ミシャの心の奥底には柔らかな慈愛がひっそりと隠されている。

 それは単純で表面的な優しさや哀れみなどではなく、云うなれば厳格な矜持プライドの裏側にいつのまにか着いてしまった深い沁みのようなものであるかもしれない。

 おそらくは当のミシャもそんな心情を持っているという自覚はないだろう。

 けれど時としてそれが揺らしたコップの縁から零れ落ちる液体のようにスッと滴ることがあるのだ。

 そう、たとえば今のように、ミシャの心ならずも。

 こういう瞬間をこれまでにも何度か目の当たりにしてきたからこそ俺は不平を漏らしながらも深いところでミシャを信じ続けられているのだと改めて感じた。

 

「お、おのれ……。おのれぇぇぇッ!!!」


 カイセの怒号が響き渡った。

 目を向けると息荒く裂けるほどに漆黒の眼を見開いたカイセが今にもこちらに跳び掛からんとばかりにその両肩を怒らせていた。


「私の……私のコレクションを……大切な家族をよくもぉぉッ!」


 その怒りに応じるように奴に絡みつく黒霧がその足下から濁流の如きうねりとなって空に立ち昇っていく。またその霧の中にバラバラにされた少年たちの手足や苦悶の表情を浮かべる顔がたわわに実る果実のようにぶら下がり明滅を繰り返している。

 その大気を震わせるほどの霊力の凄まじさに俺の背筋は再び凍りついた。

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