16-8
『やれやれ、仕方がない奴じゃ。しかしまあ、精神が脆弱である人間にしてはよく耐えた方かも知れぬ。欲を云えばもう少し分取ってやりたかったところだが主が廃人になってしもうてもいろいろと面倒ではあるし、今はこのぐらいにしておいてやろうかの』
その抑揚の乏しい嘆息のようなミシャの声に続いて固く閉じていた目蓋の裏に閃光が走った。次いで刹那、まるで回転する脱水槽にでも放り込まれたかのような強烈な遠心力が体の中心から外側に向けて迸り、骨髄にまで達して侵蝕を繰り返していた暗黒のタールがあっという間に微塵も残さず皮膚の外へと弾き飛ばされいくのを感じた。するとそれにつれて死にたいとさえ願った激痛と懊悩の重苦が嘘のように軽くなっていく。そして代わりに真冬に降り注ぐ木漏れ日のような優しい温かさが全身を包み込み、やがてうっすらと目を開くとすでに暗黒の海は消え、視線の先には未だ片膝を着き、地面に拳を打ち付けたままのカイセが映っていた。
「ま、まさか……信じられん。私の死海を蒸散させたのか」
奴の怖れ戸惑う声が届き、鼓膜に残滓として残っていた子供たちの怨嗟が薄れていく。ミシャは腕組みをしたままの姿勢でそのカイセを見据え、しばし後にひとつ小さなため息をついた。
「愚か者め、ワシの精神が崩落するとでも思うたか。見くびられたものよ、詰まらぬのう。詰まらぬ、興醒めじゃ。さほど期待をしたわけでもなかったが、戯れ言を申した貴様の罪は軽くない。罰として
「は? なんだと……」
ミシャがわずかに目線を下げるとすぐ目の前にありえない光景が映り込んだ。
それはあろうことか宙に浮かんで並ぶ三つの頭髪が剃られた青白い後頭部だった。
―――― こ、これはカイセに囚われていた少年たち……。
目を瞠るとさらに視線が落とされた。
すると足もとにはいくつものバラバラに切断された腕や脚、そして内臓が抉り出された胴体が散らばり落ちていて俺は思わず目を逸らし、えずいてしまいそうになる。
「このような脆弱な者どもでワシを倒そうなどとはあまりにも滑稽千番よな。それに暗黒と絶望の海などワシからしてみれば澄んだ湖のようなものである。しかし、この体の持ち主にはそれなりに堪えたようであるがのう」
そう言い終えて皮肉と嘲笑で頬を緩めたミシャをカイセはギリリと奥歯を鳴らして物凄い形相で睨みつけた。
「返せ。私のコレクションだ」
「ならぬ、没収じゃと云うたであろうが。まあ、とはいえ手元に置いておくには少々邪魔であるな。ふむ、ならばあとの処遇は天界で暇を持て余しておる奴らにでも任せるとするか」
ミシャがおもむろに少年たちの頭へと右手をかざした。
するとそこに真っ白な光が膨らみ、やがて地面に転がっている彼らの全身をも余さず包み込んでいく。それは邪神
「や、やめろ。それは私の……私の大事な……ああッ……」
その巨体をのっそりと起こしたカイセが譫言のような声を呟きながらヨロヨロとこちらに近づいてくる。
「ふん、なんじゃ。貴様の大事な
そうミシャがほくそ笑んだ時には光球の中に完全に復元された三人の少年たちがぼんやりと立ち尽くしていた。よく見るとその体からは切断されていた跡や頭に刻まれていた縫合の痕も消えている。彼らは互いに顔を見合わせ、それからおずおずとためらいながらもこちらに振り返った。少年たちの顔はいったいなにが起こったのか分からないといったようにぼんやりとしていて、そして皆一様に不思議そうな眼差しをこちらへと向けていた。
けれどその背後からは少年たちに追い縋るようにカイセがまさしく鬼の形相で巨体をよろめかせながら近づいてくる。
「返せ。私の……私の家族を……」
間近に迫ったカイセはそう譫言のように呟き、腕を伸ばした。
そして指先が光球に触れた瞬間、そこに真紅の炎が高く立ち昇った。
「ぐ、ぐわあぁッ!」
引き戻したカイセの指先からは黒煙が上がっていた。
ミシャがせせら笑う。
「慌てるでない。貴様の浄化は全てのガキの魂を天界に送り着けた後じゃ。特別にじっくりと丁寧にやってやるから期待しておくが良いぞ」
そしてミシャは光玉に手をかざしたまま俺にも上手く聞き取れないほど微かな声で囁いた。
「……往ね」
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