16-2

 いまや立ち込めていた霧は完全に消え去り、すっきりと晴れた見通しが良い景色が俺たちを取り囲んでいた。また見渡せば草の葉に残る雨露が陽の光を受け、視界のあちこちで可憐に眩く煌めいている。

 目の前には高々と十字架を携えた古色ゆかしい教会。

 辺りを包み込む森林特有の鮮烈で清々しい朝の空気。

 心安らぐその光景の中心に、けれど一点ドス黒く汚れ切った存在がそれらの平穏を全て掻き消してなお、さらに俺たちを恐怖の奈落に引き摺り込もうとしていた。

 陰湿で冷たいテノールが未だ俺の鼓膜の奥で谺のように何度も反響を繰り返している。

 ―――― 狩場。

 おそらくその言葉には睦月を奪取するだけではなく、ここに招き入れた者全てを抹殺するという意味合いが含まれているのだろう。

 俺は怖気に縮みそうな背をなんとか真っ直ぐに保ち、膝立ちのままカイセを睨み続ける。目を逸らしたらあっという間にやられる。辺りに満ち満ちたそんな殺気に周囲を窺う余裕さえ俺にはなかった。


「あ、あそこ、なにかいる……。大きな影みたいな」


 さつきが立ち上がろうとする気配をそばに感じ、俺は片手を伸ばしてそれを制する。


「それに変な声も聞こえました。……カリバとかなんとか」


 雑賀さんもまた怪訝な声を震わせた。

 どうやら彼らには奴の姿や声が曖昧にしか捉えられないようだ。しかし逆にいえば霊感を持たない者にさえ、それがはっきりと感じられるほどカイセは強力な霊気を放っているとも言える。


「奴がいる。動かない方がいい」


 声を潜めてそう警告すると二人が同時に息を呑む気配があった。

 俺は続けて訊く。


「ところで睦月は無事か」

「え、ええ。私たちの後ろに……」


 そう答えかけた雑賀さんの言葉が不意にそこで止まった。

 続いて慌ただしく目線を振り撒く二人の動きが感じられた矢先、唐突に色を失った声がさつきの喉から放たれる。


「いないッ、どうして? 睦月ッ! 睦月、どこなのッ!」


 とっさに振り向くと俺と同様に地面に膝立ちになった二人が蒼白な顔を何度も辺りに巡らせていた。


「どうして? さっきまで確かにここに……」


 口もとを両手で覆った雑賀さんがオロオロとした様子で目線を繰り返し翻す。

 俺もひとしきり睦月の姿を探したがやはり睦月の姿は見当たらなかった。


 くそッ、いつのまに。


 俺はグッと奥歯を噛みしめ、再び前方へと視線を差し戻した。

 カイセに動きはなかった。

 片頬を吊り上げた悍ましい微笑みのまま、動揺する俺たちを愉しむが如く見つめている。

 

『睦月をどこにやった、カイセ』


 気がつくと俺は後も先も考えず念を送っていた。

 するとカイセはわずかに首を傾げ、それから頭蓋に響く声を発する。


『いやはや、これほど明確な思念で会話ができる人間は珍しい。それに私の名を知っているとは恐れ入った。なるほど、コウジロウの姉……、確かキヨと言ったか。屋敷に居着いたあのすばしこい鼠のような小娘に聞いたのかな。ふむ、ということはつまり今回の小細工を弄したのもキミだろう。フフフ……まあ、なかなか堅実な手ではあったと思うがね、相手が悪かったんだ。キミにそれほど落ち度があったわけではない。だからあまり気にしない方がいい。残されたわずかな時間をせめて心安んじて過ごしてもらいたいからね』


 冷たく嘲るようなその口調に体が硬直しそうになる。

 けれどそれでも悪霊を相手に怯むわけにはいかない。

 その矜持が辛うじて俺の唇から言葉を紡ぎ出した。


『ずいぶんと饒舌なんだな。それならついでに答えてくれよ。もう一度聞く。睦月をどこにやった』


 カイセが少し驚いたように肩をすくめた。するとそれに呼応するように人間の頭を持つ黒い蛇のような無数の子供達の霊がカイセの周りをぐるりぐるりと渦を巻いて回転する。


『クハハ、そんなことをいまさら知ってどうするというんだね。もしやあの子を取り返せるとでも思っているのかい。無駄だよ。それより少しは自分の心配をした方がいい。私の姿がハッキリと視えているキミなら上手くすれば私から逃げおおせることができるかもしれないからね。まあ、可能性はわずかだが』


『いいから、答えろよ。睦月はどこだ』


 眉間の奥で剣呑な思念を練って飛ばすと、そのときミシャが唐突に現れ、呆れたように俺を嘲笑った。


『貴様はほんに阿呆じゃな。そんなまどろこしいことをせずとも此奴こやつを討てば済む話じゃろう。ほれ、早うワシに体を預けよ』

『いや、まずは睦月の安全を確保したい。それにいくらミシャでもあの怪物を相手にして……』

『はあ? もしや貴様、ワシの力量を疑っておるのか。心外じゃな』


 俺は頭の中で口を噤んだ。

 確かに大蛇神であるミシャはいわばチート級霊力の持ち主だ。

 ひとたびミシャが俺の身体を介して降臨すれば、どんなにタチの悪い悪霊や妖怪もまるで赤子の手を捻るように封ぜられてしまう。だから共生を始めてすでに数年が経った今でも俺はミシャの本領の底を未だ覗いたことがない。

 とはいえカイセが放つ霊力もまたこれまで俺が遭遇してきたどんな怪異よりも圧倒的であり、パラメーターの上限を超えた観測不能な力を持つ双方がやり合ってどうなるかは不明だ。

 だからこそ俺は依代いしに手を掛ける前になんとしても睦月の所在を確かめたかった。


『まあしかし、貴様の懸念も分からんでもない。此奴を打ち倒すことなど造作もないが、このままガキを隠されてしまえば見つけ出すのはなかなか骨が折れそうじゃからのう。後でそういう雑事に借り出されてはワシもたまらぬ』

『……隠される?』

『なんじゃ、まだ視えておらぬのか。ほれ、あそこよ』

 

 目線が勝手に右にズレた。

 それは花壇の向こう、教会の裏手へと続く小径の先。

 そのとき、ほぼ時を同じくして雑賀さんが声を震わせた。


 「も、もしかして、あれ……。ムッちゃん……?」

 

 

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