16-3

 ―――― 目を向けた先。

 そこにはカイセが産み出したと思われる残酷な怪異が存在していた。

 喩えればそれはカサコソと這いずる巨大で真っ黒な草鞋虫わらじむしといったところだろうか。けれど少し目を凝らすとグネグネと動くその無数の脚の一本一本が子供たちの体から切り離された手足であることが分かり、またしても思わず目を背けたくなる。そしてさらにその奇怪な獣畜の背にぐったりと横たわった睦月が乗せられているのを見て俺は即座に片膝を立て身構えた。


「ひっ……む、睦月が黒い霧の上に浮かんで……」


 激しい動揺で詰まったさつきの声が左肩のすぐ近くで震え、次いで雑賀さんが悲鳴を飲み込む気配があった。


 くそッ、いつの間に……。


 思わず舌打ちをする。

 二人の様子からすれば睦月が確かにさっきまで俺たちの真後ろにいたことは明らかだった。

 ならば俺がカイセに気を取られている隙に怪異がこっそり睦月を連れ去ってしまったということになる……が、それは腑に落ちない。

 いくらカイセに意識を集中させていたとはいえ、あれほどの大きさの霊体に背後を取られて俺が全く気付かないなどということはないはずだ。それにあんな化け物が忍び寄れば、低級の霊体には興味がないミシャでもさすがに黙ってはいないだろう。

 しかし、ならばどうやって……。


『おい、ぬしよ。悠長に考え事などしておって良いのか。まあ、ワシはあのガキがどうなろうと一向に構わんがのう』


 そのミシャの声に思考が引き戻された。

 そして視界の先で睦月を運ぶ怪異があと数メートルほどで建物の裏に消えてしまう様子を捉えて戦慄する。

 

 ちっ、そうだった。とにかくまずは睦月を奪還するのが先だ。


 そう切り替えた時には俺はすでに右足首を捻転させ、その爪先に集中させた霊気を一気に地面に向けて解き放つ。

 ミシャから伝授された超加速の仙走術、雷槍らいそう

 刹那、辺りの景色がカラフルな横流れの線となる。

 距離は目測で約二十メートル。

 問題ない。

 日頃、ミシャのスペシャルトレーニングで鍛えられた俺の脚力ならば十分に間に合う。それにカイセから切り離されたあの鈍重そうな霊体が強い攻撃力を持っているとも思えない。となれば追いつくことさえできれば、睦月奪還はさほど困難なミッションではないはずだ。

 スニーカーが地を駆る音が猛烈な速さのスタッカートとなって鼓膜を叩き、わずか数歩で俺はトップスピードに乗った。

 怪異との距離はすでにおよそ半分。

 これなら余裕で間に合……。


 その矢先、俺の体はなぜか宙高く舞い、周囲の景色がスローモションで回転を始めた。

 まずは東の空に輝く太陽の光が瞳孔に差し込み、俺は反射的に目を眇めた。

 すると次いでその細めた目蓋の隙間に青々とした草地に跪いた柏木と雑賀さんの姿が見え、さらに体が捩れると今度は教会と黒々とした巨大なカイセの霊気が映り込んだ。そこで俺はようやく理解した。

 寸刻前、自分の鳩尾をカイセの強烈な打撃が襲ったことを。

 

 ぐッ、アッパーカットを喰らったか……。


 カイセの左肩からはムクムクとした黒雲のような腕が太く長く伸ばされ、ちょうど俺が駆け込んだ花壇の切れ端のところで鋭い鉤のように突き上げられていた。

 けれどその不覚を悔いる間もなく、もんどり打った体が地面に強く叩きつけられて俺はしばし呼吸を失う。


「い、石破さんッ、大丈夫ですかッ」

「ああッ、石破くんッ、石破くんッ」

 

 その金切り声に辛うじて繋ぎ止められた意識を頼りにうっすらと目を開けると青空を背景に二人の悲痛な表情が俺の視界のほとんどを占拠していた。

 あの一撃で10メートル以上も吹っ飛ばされたらしいと気がつき、俺は低く呻きながら彼女たちを片手で押し分けるようにして半身を起こす。すると胸元に轢音と激痛が同時に走った。どうやら肋骨が何本かイカれてしまっている。

 俺は顔をしかめ、それでも眦を切って視線をカイセへと向けた。

 すると奴は片頬を吊り上げた薄気味悪い笑みを浮かべたまま、見下すような睥睨で俺を見つめ返した。


『クククッ、悪く思わないでくれたまえ。人間にしてはなかなかの素早さだったから、少しばかり手加減を誤ったようだ。でも、これで分かっただろう? この場でキミにできるのは尻尾を巻いて逃げることぐらいのものだよ。まあ、それすらも難しいだろうけれどね』


 カイセの嘲るような声が俺の頭蓋の中で鐘の音のように鳴り響いた。

 同時に俺は深い虚脱感に襲われる。


 くッ……悔しいが奴のいう通りだ。

 所詮、俺の力では睦月を助けることさえままならない。


 カイセからわずかに逸らした目線の先で蟲のような怪異の尻が教会の影に隠れようとしていた。それを見て俺は奥歯を強く噛み締め、よろめきながらもその場に立ち上がる。


『ふむ、ようやく悟ったようだね。まあ、キミの健闘を讃えて今回だけは見逃してやってもいい。さ、私の気が変わらぬうちにそこの二人を連れて早く立ち去りたまえ、クハハ……』

『ほざけよ』


 奴を睨み上げ静かに唸るような思念を放つとカイセは不審げに眉をひそめた。


『たいしたものだ。ここまで力の差があると分かってもまだその目つきができるとはね。余程の自信家か、あるいはただの莫迦か。ふふふ……』

『ふん、悪いがどっちでもねえな』


 そう吐き捨てた俺は開襟シャツのボタンをひとつふたつ無造作に引きちぎった。


『しかしまあな、確かに俺じゃどう足掻いてもお前には勝てないみたいだ』


 そしてそのまま右手を胸元に潜り込ませる。


『でもな、ここから先はお前もちょっとばかし手を焼くと思うぜ。覚悟しろよ』

『残念ながら戯言に付き合う趣味はない』

『まあ、そう邪険にするなよ。お楽しみはこれからだ』


 俺はネックチェーンの先にぶら下げた依代を指先で摘み、『頼む』と告げた。

 すると頭の片隅でミシャが大仰にため息を吐いた。


『やれやれ、ようやく出番か。待ちくたびれたわい』


 不満げなセリフにしてはその口調は嬉々としていた。

 

『それにしても貴様、あの程度の打突が躱せぬとはまだまだ修練が足らんようじゃのう。罰として明日からしばらく特訓じゃぞ』

『怪我人だぜ。ちょっとは大目に見てくれよ』

『何をいう。痛みに耐えるのも修行のうちじゃ』

『……勘弁』


 俺は閉口しつつも俺は依代をグッと深く握り締めた。


 

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