12-10

「なあ、九条さんはどしてお医者さんになろう思たん?」


 唐突な問いに目を向けると光の乏しい瞳が枕を背に私を見上げていた。

 私は少し考えてから朗読してやっていた児童書『ロビンソン漂流記』を膝もとに伏せて置く。


「疲れたのか。それなら今日はここまでにしよう」


 立ち上がろうとすると聡一郎がゆっくりと頭を横に振った。

 私は仕方なく立てた膝をもとに戻し、それから軽く腕組みをする。


「人間の身体に少しばかり興味があった。それだけのことだ」


 そう答えてやると聡一郎は「ふうん」と小さな呟きを血の気のない唇から漏らし、それから頼りない沈黙がしばらく続いた。

 吊り下げた石油ランプの光が部屋全体を暗い朱色で染めていた。

 聡一郎が放つ病人特有の甘酸っぱく腐ったような匂いと灯油臭さが混ざり合って部屋を殊更に陰湿にしていた。


「なんでやろなあ」

 

 ぼうっと薄暗い天井をまっすぐに見つめて聡一郎が掠れた声をこぼす。

 私は無言で次の言葉を待つ。

 すると少し間を置いて聡一郎の顔が白々と笑った。


「なんで僕、死ぬんやろ」


 その質問の意図が私にはよく分からなかった。

 もちろん彼に死をもたらそうとしているその要因ならいくつかの論理的な説明ができた。

 ひとつは特発性拡張型心筋症の進行による全身性の循環不全のため。

 さらに二次的に腎臓や肝臓を始めとする解毒及び代謝機能の衰えや栄養状態の悪化を誘因するためだ。

 けれど聡一郎が知りたいのはそのような学術的な情報ではない。


 まだ子供の自分が周りの大人たちに先んじて、なぜこうも早く死ななければならないのか。

 

 おそらくはそういう神意的、あるいは宗教的な運命さだめに対しての疑問なのだろう。

 そのことは理解できる。

 しかしながら答えてやろうにも常々神仏などくだらない世迷言だと突き放している私に聡一郎を納得させる知識などあろうはずもない。


 だからやはり私はただ黙って自分の胡座に目を落としているしかなかった。


「九条さん、僕、死んだらどうなるんやろ」

 

 伏せていた目線をもとに戻すと聡一郎の顔からは寂しげな笑みが消え、代わりに不可解な面持ちが現れていた。

 その質問に対して私は端的に答えてやる。


「葬儀の後、焼かれて骨壷に入れられるだろう」


 すると聡一郎は呆気に取られたようにぼんやりと浮腫んだ口を開き、それからクスクスと笑った。


「ちゃうんよ、体の方やなくて」


 私は首を傾げた。

 死んだ後に肉体ではない何かが残るとでもいうのだろうか。

 あまりにも怪訝な顔をしていたのだろう。

 聡一郎はやや気の毒そうにその青みがかった唇の端を歪めた。


「そうやなくて、僕の心とか気持ちとかそういうのはどこに行ってしまうんやろなあ、思うて」


 心?

 気持ち?

 その単語が表す真意が私にはよく分からなかった。


「感情というのは脳の働きによって産み出されるものだ。だから死ねば不能となった脳と一緒に消え去ってしまうはずだが」


 そう答えてしまった私を見つめて、彼はまたフッと儚げな笑みを作った。


「ふふ……。やっぱり九条さんは九条さんやなあ」


 そして言葉の後に激しい咳が続く。

 あまりにもその様子が苦しそうなので思わず胸のあたりに右手を差し伸べると聡一郎の白い手がそれを力無く握った。反射的に握り返すとそれはそのまま跡形もなく崩れてしまいそうなほど柔らかくて、同時にぞっとするほど冷たい手だった。

 私はその冷たさを知っていた。

 それは生温かい血液を搾り出した後の鴨やヒヨコの温度。

 愕然として手を引き戻す私に聡一郎が目を向けた。


「……そやけど僕、嫌いやないよ」


 さらに浅拍な呼吸のままに言葉を紡ぐ。


「もうしゃべるな」


 けれどそれでも彼は必死に苦しげな笑みを浮かべ続ける。


「僕、知ってんねん。……九条さんがほんまは優しい人やって。……みんな無愛想で面白うないってゆうけど、……そんなことないよ。笑ったり冗談いうたりはせえへんけど、……僕に字を教えてくれたり、……こうやって本を読んでくれたり……するもん」


 ようやくそこまで言葉をたどり着かせると、聡一郎は荒い息のまま目を閉じた。

 そのまるで残った生気を全て吐き出し切るような所作に私の中に得体の知れない何かが渦を巻き始めるのを感じた。

 同時にその渦に近づいてはいけないと直感する自分がいた。

 触れてはいけないと誰かが陰湿な声で忠告した。

 だから私は慌てて膝を立てた。

 そして聡一郎に背を向け、襖戸に手を掛けたそのとき、


「……九条さん、また明日も……ロビンソン……読んで……な」


 私はその声から逃げ出すように部屋を出て、二階に駆け上がった。


 聡一郎が亡くなったのは夜も開け切らない翌日のことだった。

 そして彼は私が置き忘れたロビンソン漂流記を胸に抱きしめるようにして終の呼吸を吐き出したのだと下宿の主人から聞いた。


 時代がきな臭くなっていた。

 主席で大学を卒業した私は、陸軍参謀本部の秘書官に就いていた長男に推挙されてヒトラー独裁政治下のドイツへと留学させられることになった。

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