12-9
いったいどういう訳でこんな無愛想な私に聡一郎は懐いてしまったのだろう。
最初は私が休みの日に時折、部屋を訪れて二言三言の言葉を交わしていくだけだったが、そのうちに夕食の後も付き纏われるようになってしまった。
たわいも無い質問が聡一郎の要件だった。
たとえば血はどういう成分でできているのかとか、口から入った食べ物はどうやって消化されていくのかなど、私が医学生であると知ったからかそういう身体についての質問が主だった。
心底、煩わしいと感じた。
そして舌打ちをしたくなるほど腹立たしかった。
なぜ自分がこんな子供のくだらない質問に貴重な時間を割かなければならないのか。
必要のない人間関係など嫌悪さえしていた私にとってそれは迷惑極まりない話であった。しかし当初は事あるごとに「自分に構うな」と冷静に注意をうながしていたものの一向にその効果はなく、むしろかえって話をする機会を得たというように聡一郎の質問攻めに会う羽目になると悟ってからは部屋に入り込んできた蛾と同じだと自分に言い聞かせて放っておくようにした。
けれどそれもまた有効な方法ではなかったとは後で気づいたことだ。
いくら無視をしていても聡一郎の語り掛けは止まず、黙っていればいるほどうるさくなる。
とうとう根負けして適当な返事をすると今度は油紙に火がついたように更なる質問攻めが始まった。
そんなある日、帰り道で立ち寄った古本屋で一冊の児童書が目に留まった。
『新訳 アラビヤンナイト』
表紙には二頭の象が描かれていて、そのうちの一頭が椰子の木を引き抜こうとしているように見えた。
店主に尋ねると子供にはずいぶん人気がある本なのだという。
私は少し思案してからその書籍を買った。
もちろん聡一郎が喜ぶだろうなどと考えたわけではない。
与えておけば少しは黙らせておけるかもしれないと目論んだだけだった。
下宿に帰ると玄関先で靴を脱いでいるところに早速、聡一郎が寄ってきた。
「なあ、九条さん。なんで人間は空気を吸わんと生きていかれへんのやろ」
私は土間に革靴を揃えながら、ため息まじりに首を横に振った。
そして傍に置いた皮の鞄から古本屋で買った児童書を取り出し、立ち上がってから聡一郎に突き出した。
「これでも読んでろ」
すると彼は不機嫌な私の顔と象が描かれた表紙の本に交互に何度か視線を往復させて、それからおずおずとそれを受け取った。
「……おおきに」
別に礼など欲しかったわけではない。
無言でかまちから廊下へと足を運び、階段を登りかけたところで背後から聡一郎の暗い声が追ってきた。
「けど、あかん。無理やわ」
足を止め、振り返るとそこに聡一郎の寂しげな笑みがあった。
「そやかて、僕、字が読まれへんもん」
その瞬間、私は自分の迂闊さに気づいた。
そういえば聡一郎は病気のせいで尋常小学校にも通っていなかったのだ。
私は渋い顔をして数歩後戻りをすると、少年の手から本を奪い取った。
仕方がない。面倒だが明日にでも古本屋に戻しておこう。
そう思案しつつ再び階段へと足を踏み出したところで不意に学生服の裾が引かれ、私は立ち止まった。
「あんなあ、九条さん。僕、お願いがあるんや」
煩わしさと訝しさで思わず大きなため息が出た。
そのまま聡一郎の手を振り切って階段を駆け上がりたかった。
けれどどういうわけか私は訊いていた。
「……なんだ」
ひと呼吸ほど間が空き、それから少し上擦ったような声が聞こえてきた。
「僕に字ぃを教えてくれへんやろか」
そんな子供の申し出など一蹴すれば済むことだった。
けれどそのときの私はどうかしていたのだろう。
しばらくして自分の口は聡一郎にこう告げていた。
「半刻だ」
「え?」
「夕食後、半刻だけ教えてやる。ただしそれ以外の時間は話しかけるな」
ぶっきらぼうな顔で睨みつけると聡一郎の瞳が大きく輝きを放った。
「うん、ええよ。分かった、夕飯の後の半刻やな。うん、うん」
何度も嬉しそうに肯く少年を後にして私はドスドスと音を立てて階段を駆け上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます