12-8
大学二年の冬を迎える頃、聡一郎の病状がいよいよ悪くなった。
それまでは大人しくしていれば、さほど問題もなく日常生活が送れていたが、夏を過ぎてから次第に動くことを億劫がるようになり、秋が深まる時分には息切れと脳貧血のために立ち上がることも覚束なくなって、そして師走を前にしてついに床から身を起こせなくなった。
少年の心臓がどのような状態になっているのか。
医学生の私にそれが把握できないはずもなかった。
彼の心臓はすでに紙風船のように薄っぺらになり、肺から送られてきた血液を大動脈へと駆出するポンプとしての機能などもうほんのわずかしか残されてはいないのだ。そしてその能力もおそらくはひと月もしないうちに尽きてしまうはず。
故に聡一郎がこの世に存在できる時間はあとわずかだろう。
けれどそのことを考えると何者かがいつも姦しく騒ぎ立てた。
もしかしてそれは憐憫か、同情か。
おっと、愛情などと片腹痛いことを言い出さないでくれよ。
鼓膜の奥に響くその嘲り声に私はその都度、唇を歪めてゆるゆると首を振る。
それはない。
そんなありきたりで愚かしい感情など自分にとっては不必要極まりないものだ。
ましてやそういう余計な風が炎を吹き消してしまうことなどあってはならない。
脳のどこかに潜む何者かに向けてそう言い放つと「ふん、どうだか」と蔑んだ口調とともにそいつは気配を完全に消し去ってしまう。
そういうとき私はいつも微かなため息をついてから意識を再び外に向けた。
「どうかしたの」
その声にハッと我に返り、いつのまにか壁に漂っていた目線を落とすと聡一郎が枕を頭にしたまま私を見つめていた。
「いや、なんでもない」
いくぶん取り繕ったような声が出てしまったかもしれない。
私はひとつ咳払いをして手に持った児童書に再び目を戻した。
学校から戻ると真っ先に聡一郎が寝ている一階の奥間に向かう日々が続いていた。
「気分はどうだ」
そう問うと聡一郎は石油ランプの光に浮かばせた青白い顔に懸命に笑みを浮かべようとした。そして決まってこう続ける。
「大丈夫。今日は昨日よりも楽」
嘘であることは明白だった。
病状は日に日に悪化していた。
食事もほとんど摂れなくなったし、医者がやってきても上体を起こすことさえ難しいのだと大家である両親が嘆くのを私は耳にしていた。
「そうか」
無感情に肯くと聡一郎が浅拍な呼吸を圧して声を紡ぐ。
「それより、ねえ早く、今日のお話」
せがまれた私は傍に寝かせた皮の鞄から赤っぽい装丁の一冊の本を取り出した。
するとそれを目にした聡一郎の顔がたちまち明るく輝き始める。
円本と云われる一冊一円の児童書。
その本の読み聞かせがいつのまにか私が下宿に戻ってからの日課になっていた。
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