12-7
特発性拡張型心筋症。
それが聡一郎が抱える病の呼称だった。
原因は不明だが心筋の収縮力が弱まり、心臓が果たすべきポンプとしての役割が徐々に失われていく疾患で性別や年齢層に関わらず発症が認められるとされている。
古来から使われているジギタリス製剤はある程度有効だが、中毒や黄視症など副作用事例も多く報告されていて使用はかなり難しい。
つまり現代の医学ではいわゆる不治の病とされ、患者の生命は保って数年というところが妥当とされていた。
図書館で学術書や論文をひとしきり漁り読み、私はそこで軽く鼻を鳴らした。
自分がずいぶんと滑稽な生き物であるように思えたのだ。
いったいそんなことを調べてどうしようというのか。
改めてそんな疑問が浮かび、私はついに落胆のため息を落とした。
下宿屋の子供が特発性拡張型心筋症という病を発症し、余命をあと数年とされている。
そのことに関わりを持つ必要など微塵もないはずなのに、講義を終えた私は不意に思い立って図書館でその疾患のことを調べた。
気になったのは確かだ。
聡一郎の舌足らずな説明がどういう疾患のことを指しているのか。
純粋に学術的な疑問が私を動かしたのだと、そう思いたかった。
けれど心の奥のどこかでそれは違うだろうと嘲る自分がいて、妙に鼻についた。
猫と姉を刺し殺そうとしたあの夜、全身を燃えたぎらせた欲望。
その炎は未だ消えることなく私のどこかでチロチロと蛇のような舌を出している。
今は再び大火となって思う存分に燃やし尽くすそのときのために身を潜めているに過ぎない。
聡一郎の運命がそこに割り込む隙などあるはずもない。
正しくそう理解できているはずなのに、どういうわけかふとした時に彼が浮かべた寂しげな微笑が目に浮かんでしまう。
私はその残像を振り払おうと二、三度頭を振り、天井まで聳えるアーチ型の大窓に目を向けた。
夕暮れ。
紅く空を染めた夕焼けが新緑の樹々たちをただの黒い影に貶めていた。
私はひとしきりその寂寥とした光景を眺め、それから席を立った。
帰り道、道角で焼き鳥の屋台が香ばしい煙を上げていた。
歩み寄ると露店の屋根枠からは羽をむしられた鶏が逆さに何羽かぶら下がっていて、不意に甦った鴨猟やヒヨコの記憶に鼓動が軽く弾んだ。
「二十本ほど適当に焼いてくれ」
ぶっきらぼうにそう頼むと椅子に掛けていた店主が嬉々とした素早さで腰を上げ、あらかじめ用意していた肉種の竹串を炭火の上に並べ始めた。
そして忙しく手先を動かしながら私に目を配った。
「医大の学生さんやな。すぐ焼けるさかい」
この辺りで学生服を着て歩いている者といえばそれしかなかったのかもしれない。
私は特に返事をすることもなく焼き音を立て始めた串をただ見つめていた。
使われている鶏は老いて廃用になったものばかりでその筋ばった肉はさして美味いものではなかったが、いつだったか一緒に食卓に着いた聡一郎が食いたいと言っていたのを思い出して足が向いてしまったのだった。
そういう自分に私はやはり呆れつつも、それとは別に体内の奥深くで何かがゾワゾワと不穏に蠢く気配も感じていた。
けれどその感情の正体を知ろうとしてはいけないと直感で察している自分がいた。
また自分の中にいつのまにかそのような怪しげなものが居着いてしまっていることを認めたくはなかった。
群青の空に立ち昇る煙を眺めて私は再びため息をついた。
その夜、食卓に並んだ焼き鳥に聡一郎は小さな歓声を上げた。
そして嬉しそうに何度も私に礼を言った。
無表情で肯くと聡一郎は青白い顔をさらにほころばせて串をつかんだ。
私は口一杯に肉をほおばる彼を横目にチラチラと窺いながら、無言で箸を動かした。
触れることが許されない感情が私の中心の近くで再び蠢き始めるのを感じた。
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