12-6
老婆の死体にメスを走らせたその瞬間、私は思惑通りの高揚感に満たされた。
けれどそれはほんの一瞬に過ぎず、すぐに見窄らしい落胆に変わってしまった。
青白く冷ややかな遺体からは当然ながら血液がほとばしるわけもなく、生が死に移る時に現れる動揺も畏れもなかった。
そのような当たり前のことが私には至極残念に感じられた。
少なからず期待していたのだ。
姉に悍ましい殺意を抱き、猫を見逃したあの夜から数年の月日が経ったことで私の内側に
あるいは死体を切り刻むだけで満足できる蝋燭に灯すような小さな炎となってくれてはいないだろうか、と。
けれどその期待は呆気なく裏切られてしまった。
冷たい氷の如き老婆の臓腑を一心に切り分けながら私は心の深底に響き渡る呻きを聴いた。その声はもの哀しげで恨みがましく、そして真っ黒なコールタールのようにドロドロとしていたが、いったん火が点けば爆炎を発してこの身を焦がし切ってしまう不穏さをひしひしと感じさせた。
その頃の私に葛藤を苛まれ続けていた。
あの夜、網膜の裏に想像した目眩く願望が本当に自身が望むものなのかどうか、それがよく分からなくなっていた。
いや、その言い方はあまり正しくはないだろう。
正確に言えばそういう願望を抱いている自分をどうにかして抹殺したかったのだ。
どんなときも目立たず、出しゃばらず、身の程を弁えなさい。
能があればそれを隠し、言い分は総て呑み下しなさい。
そうしているだけで貴方は苦労とは無縁の一生を送れます。
そのことに感謝して驕らず慎ましく生きるのです。
決して高望みをしてはいけません。
その正体不明の言葉が暴れ出しそうな欲望を辛うじて縛り付けていた。
そして私自身も
あの夜以降、私はそれまでにも増して家族から孤立することになった。
兄たちはこぞって私に蔑みの眼差しを向けて嘲笑を浮かべ、目撃者である姉や元々私を毛嫌いしていた継母は目を合わすことさえ穢らわしいといった素振りで私に近寄ろうともしなくなった。また、たまに親密な言葉を掛けてくれていた父にも無視されるようになり、使用人たちからも避けられるようになった。
けれどそれらは私にとってさほど大きな変化ではなかった。
孤独には慣れきっていたし、家人の誰とも口を効かなくてもどうということもなかった。
そんな事は取るに足りないことだと思っていた。
いまさら疎外感など感じる訳もなく、むしろ干渉される煩わしさから逃れることができて清々する想いだった。
そんな私の心根に少しばかりの変化がもたらされたのは医大に通うために屋敷を出て、独り暮らしを始めてからのことだ。
下宿先に聡一郎という名の八歳の少年がいた。
彼はなんとなくいつも青白い顔をしていて、どういうわけか他の子供のように外で走り回ったりせずにいつも家の中に引きこもっていた。
なんらかの疾患を抱えているのではないかと想像はついたが、特に興味や好奇が湧くはずもなく、そのまま放っておいた。
下宿を始めてひと月が経とうとする頃、帰宅した私が部屋で学術書を読んでいるとふと背後に気配を感じた。
振り返ると襖戸の隙間から覗いている瞳があった。
私はそっと小さなため息をつき、それから顔を戻してまた学術書に目を落とした。
大学でも下宿先でも私は誰とも不必要な関わり合いを持つつもりなどなかった。
その頃、私が目指していたものといえば至極浅はかな折衷案だった。
きっと私は臆病過ぎたのだ。
だから社会的な罪を負わずに欲求を叶えられる方法を模索していたように思う。
まず医者という肩書きを手に入れ、それを隠れ蓑にして願望を果たす。
多少遠回りでもそれが最も安全で効率的な方法であると考えていた。
いま思えば本当に皮相な考えだった。
身を伏せた願望はそのような小賢しい方法で満たされるはずもなかったのに。
とにかくその遠謀ために私は極力他人の記憶に残らない人物として振る舞う必要があった。
だから襖戸から覗く聡一郎の瞳も無視した。
彼と関わり合いになるなど下宿の軒下に打ち捨てられた割れた壺と同じくらい私にとって不必要なことだった。
そう思っていた。
それから数日が経った昼下がり、文机に向かって医学書を読み耽っているとまたしても襖戸が開けられる気配を背後に感じた。
私はそっとため息をつき、それから顔を上げて窓の外を見た。
灰色の空から舞う小糠雨が辺りを白く烟らせていた。
向かい屋根の瓦が濡れて、その光景にひと際陰鬱で黒い影を浮かべていた。
雨だれの音が耳に心地よく、私は気を取り直して医学書に目を戻した。
「なあ、九条はんはお医者さまになるんやろ」
すぐ真後ろからその声は響いた。
私は舌打ちをなんとか堪え、振り返ることなく肯いた。
「いつなれるん」
「四年後、大学を卒業したら医師の免状が与えられる」
顔をしかめ医学書にこぼすようにそう答えると文机の横に聡一郎の顔が現れた。
「四年かあ、長いなあ」
仕方なく目を移すと彼は青白い顔に屈託のない笑みを浮かべて私の視線を受け止めた。
「それ、なんの本?」
「医学書」
素っ気なく答えた。
けれど聡一郎は文机に身を被せて覗き込んでくる。
煩わしくて思わず手で追い払おうかと思ったがやめておいた。
「なあ、これなに」
挿絵に指を立てた彼に私は眉根を寄せ、けれど仕方なく答えてやる。
「心臓だ」
「え、これが心臓。へえ、こないな形しとんのやなあ」
聡一郎はおもむろに自分の胸に手を当てた。
そしてさも不思議そうな顔をして、次いでその手を拳に握りしめた。
「九条さんは心臓の病気、治せるようになる?」
それはその拳に向けた呟くような問い掛けだった。
軽く首を傾げ、「分からない」と短く返すとそれから長い沈黙が訪れた。
どうにもその間が手持ち無沙汰でつい尋ねてしまう。
「なぜそんなことを訊く」
「僕なあ、心臓の病気やから長生きでけへんのやって」
あっさりとそう答えた聡一郎の顔には小糠雨を降らせる空に似た寂しげな微笑みが浮かんでいた。
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