12-5

 高等学校に進学して間もない頃。

 ある日の夕刻、私は行き倒れた一匹のキジ猫を屋敷の裏庭で見つけた。

 地面に体を横たえたそれは骨と皮しかないほどに痩せていた。

 何かの疾患に罹っているのかもしれない。

 あるいは単に栄養失調に陥っているのか、歳を取っているだけなのか。

 近づくと猫は逃げようとして起き上がったものの、すぐにその場にうずくまってしまい、けれどそれでも口を開けて精一杯の威嚇をした。

 眠っていた衝動が当たり前のように目を覚ました。

 私は庭師が使っている物置から麻袋を持ち出してきて手早く猫をそれに押し込むとそのまま無造作に物置に放り込んでおいた。

 そして夜、皆が寝静まる深夜を待って起き出し、私はランプとゾーリンゲンのナイフを手に誰にも気づかれないように足音を忍ばせて長い廊下を進み、勝手口からそっと外に出た。

 見上げると朧月だった。

 湿気を含んだ冷たい夜風が纏わり付く。

 私は闇に目を凝らしながら裏庭を進み、出来るだけ音を立てないように物置の扉を引いた。

 夕方のあの様子ではすでに死んでしまっているかもしれないと案じつつ麻袋を持ち上げると、猫が身をくねらせる感触が手に伝わってきて私はホッと胸を撫で下ろした。


 表庭の片隅に東屋があった。

 頼りない月の光を借りてそこまでたどり着くと、ランプに火を灯した。

 東屋の中央には木製の丸いテーブルがあった。

 屋敷で度々開かれる招宴の折、継母が仲の良い婦人を集めてそこで洋式の茶会を催しているのを何度か見たことがある。

 麻袋を逆さまにすると猫は袋からテーブルに滑り落ちてドスンと音を立てた。

 尖った爪が袋の入り口に引っ掛かり、猫はなんとか逃げ出そうともがいた。

 けれどその爪が外れることはなく、そのうちに力尽きたように猫は口を開けたまま横たわった。

 私は爪先を袋から外してやると、しばらくじっとその姿体を眺めた。

 すると微かに足が震えた。

 けれどそれは恐怖や憐憫、逡巡、ましてや自己嫌悪からの震えではないことは明らかだった。

 そこに存在していたのは目眩くような期待感だった。

 もはや小さなヒヨコなどではほとんど満たされなくなってしまった欲望。

 けれどこの猫ならきっと……。


 テーブルの上で腹這いになってうずくまる猫をひとしきり見つめていた私は感情の昂りに合わせてナイフを強く握り直した。

 そしてその右手を高々と振り上げたそのときだった。


「何をしてるの」


 ビクリと身を硬直させて振り向くとそこに三つ歳が離れた姉が立っていた。

 揺らぐランプの焔が照らし出したその顔は訝しさと恐れ、そして厭わしさに歪んでいた。

 

「何をしてるの、櫂世」


 姉がもう一度訊く。

 私はナイフを持つ右手を下ろし、ゆっくりと体を姉の方に向けた。


「……別に、何も」


 口籠ると姉が私を避けるようにテーブルを回り込んだ。

 そして横たわる猫を見下ろしてまた同じ質問を繰り返した。


「ねえ、何をしていたの。この猫に何をするつもりだったの」


 私は姉に背中を向けたまま首を横に振った。

 重い沈黙が立ち込めた。

 夜半の湿った風が木立の樹葉を震わせてざわざわと音を立てた。

 私は少しばかり混乱していた。

 姉の剣呑な眼差しに後ろめたさを感じつつも、腹の底から迫り上がってくる本心を持て余していた。


 邪魔が入って残念だ。

 もう少しだったのに。


 やがてその不穏な感情が浅薄な衝動をポトリと産み落とした。


 ならば、いっそこのナイフで……。


 その端的な殺意を私の瞳のどこかに感じ取ったのかも知れない。

 姉が不意に「ひッ」と小さな悲鳴を上げて後退った。

 そして矢庭に屋敷の方へと駆け出して闇に消えた。

 きっと誰かを呼びに行ったのだろう。

 そのときふと気がついた。

 自分の頬や唇の端が奇妙に引き攣り上がっていることを。

 そして喉の奥がくつくつと低く小さく振動していることを。

 私は笑っていたのだ。

 この屋敷で暮らし始めてから誰にも一度たりとも見せたことのなかった笑み。

 心の底から意外に思えた。

 私自身も自分にそのように笑える能力が備わっていたとは考えたこともなかった。

 私は声を高らかに立てて笑ってみた。

 顎を軽く上げて真っ暗な東屋の天井を見つめ、口を大きく開いて笑った。

 静寂を侵し続ける卑しげな笑声をまるで他人のそれのように聴きながら、私は自己を称賛していた。

 あのとき私の中に生じたのは姉を刺し殺す衝動だけではなかった。


 鴨やヒヨコのように彼女の首を切って、ほとばしる血液を全身に浴びせかけたい。

 そして腹を裂き、その臓腑の温もりをこの素肌にまとわりつかせたい。


 それはとても純粋で素直な願望だった。

 そのとき私は初めて真の自分のありように気がついた。

 私の身のうちにはそのような狂気が無尽蔵に蓄えられている。

 その発見に驚き、そして同時に抑えきれないほどの愉悦が笑いとなって吹き出したのだ。


 私の高らかな笑い声は深夜のひっそりとした闇の中に響き続けた。

 いつのまにかテーブルから猫の姿が消えていた。

 けれど私にとってそんなことはどうでも良くなっていた。


 私にはもう猫など必要ない。


 自分が本当に求める景色はもっと遥か遠くにある。

 けれどそこに辿り着くのは容易ではない。

 そして大きな目的のためには小さな欲求をいくつも飲み込む必要がある。

 慎重に事を進めなければならない。

 そして自重しなければならない。

 想像するだけで蕩けてしまいそうなこの甘美な欲望を叶えるために。

 

 屋敷の方から近づいてくるいくつかの足音と密やかな話し声が聞こえた。

 私はようやく笑声を抑えた。

 朧月が放ち堕とす怪しげな月光が私の瞳にはやけに眩しく感じられた。

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