11-6

 兄がいなくなってしばらくしてからのことだ。

 この屋敷におかしな風体の人間がやってきた。

 その男は、……いや、男だったと思うのだが、私はまだ六歳だったからあまり定かではない。

 でも、とにかくおかしな風体をしていたよ。

 その人は黒っぽい袈裟のような衣服に花魁が羽織るような金刺繍の派手な着物を肩掛けにしていて、足下を見ると黒皮のロングブーツを履いていたんだ。

 彼はカツカツと硬い靴音を響かせながら屋敷内をつぶさに調べて回り、それから父に案内されて外に出て行った。

 そしてかなり長い時間が経ったあと、再び屋敷に戻ってきたその人はひとしきり私に目を向け、それから天気の話でもするように何気なくこう言ったと思う。


「ま、その子もいずれ連れて行かれるだろうね」


 その後のことは全く分からない。

 けれど結果的に私は連れ去られずに済んだようだ。

 危険に晒された記憶もない。

 何年かが過ぎた頃、そのことについてそれとなく両親に尋ねてみたことがあったと思うけれど、何も教えてはくれなかった。

 というより、そもそもそういう雰囲気ではなかった。

 事件の後、母親は情緒不安定になって突然泣き喚いたり、あるいはケタケタと笑い始めたりするようになった。また父親は仕事ばかりであまり家に居つかなくなり、たまに見かけてもいつも不機嫌で話しかけられるような状態じゃなかったんだ。

 親になった今なら両親の苦悩も多少は推し量れるけれど、子供だった私にそれはやはり辛いことだった。

 だから、だったのだろうね。

 いつの頃からか私は殻を持つようになった。

 あるいは膜といっても良いかもしれない。

 全身を包み込む柔らかで透明な隔壁でほとんどの場合は空気の如くその存在さえ感じられないものだ。

 けれど私の精神にダメージを与えようとする刃を見つけた途端にそれは瞬時に硬質化し、その攻撃が外部からの切先の鋭いものであれ、あるいは内面から滲み出そうとしてくる昏い感情であれ、見逃すことなくそれらから自分を完全に防御することができた。

 結果、その殻はいつのまにかあの忌まわしい記憶をも包み込んでどこかに隠してしまったようだった。

 ありていにいえば私はずっと忘れていたんだ。

 大好きだった兄のことを。


 可笑しいだろう。

 そんなことあるわけがないと思うだろう。

 虚言だと疑われて当然だし、嗤われても仕方がない。

 けれど本当なんだ。

 ほんのつい最近まで消えてしまった兄のことを私は忘れていた。

 私はいたはずの兄の記憶を消し去ってこれまで生きてきたんだ。

 つまりある意味において私はとても幸せだったといえる。

 私は若くして会社を継ぎ、それから最愛の妻に巡り会って、二人の可愛い子供にも恵まれた。

 残念ながら妻には先立たれてしまったし、仕事が忙しくて子供達とゆっくり過ごせる時間もあまりなかった。それに心を病んだまま寝たきりのようになってしまった母親の介護も正直なところ辛いものがあった。

 けれど、それでも私はこれまで忌まわしい過去の記憶に苛まれずに生きてこられた。

 やはりそれは幸せなことだったのだろうとつくづく思う。

 そして同時に神の加護を感じずにはいられない。

 イエスキリストは精神に捩れを与えてしまう可能性のある幾つもの記憶を私が見つけ出せないようにどこかに隠し持ってくださっていたのだと思う。

 そのおかげで私は屈託の少ない人生を歩めたんだ。

 だから私は神に心から感謝している。


 けれど…………。


 

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