10-13

 俺は一瞬、自分がどこにいるのかよく分からなかった。

 ぼんやりと暗く霞んだ視界に女神がうっすらと微笑んでいて、またしてもあらぬ世界に迷い込んでしまったのかもしれないと身を強ばらせると、そのとき鼓膜にどこか耳馴染みのある声がくぐもって聞こえてきた。


「……さきッ、真咲ッ!」


 視線をやや右に向けると、やはりよく見知った顔がすぐそばにあった。

 その安堵感に思わず目蓋が潤みそうになった俺はあわてて目を逸らし、それから心にもない台詞を呟く。


「……綾香、うるさい」


 いきなり強烈な一撃が胸板に振り下ろされた。

 

 グハッ!


 一瞬間、呼吸が止まった。

 次いで激しく咳き込む。

 俺は上体を起こし、綾香を睨みつけた。


「いッてえよ、なにすんだよ。殺す気か」

「バカね、それぐらいで死ぬわけないでしょ。それより謝りなさいよ」

「はあ? なんでお前に謝る必要がある。訳の分からんことを言うな」

「訳が分かんないのはこっちの方よ。意識体ダイブだかなんだか知らないけど、眠りながら呻いたり歯軋りしたり絶叫したり、おまけに最後は白目を剥いて仰向けに倒れちゃったりして。ちょっと心配したんだからね」

「別に心配なんかしてくれな……くても……」


 そこで綾香の目もとが赤く腫れている事に気づいて俺は言葉を飲み込んだ。

 そして床に目線を落とし首筋を撫でて小さく呟く。


「いや、まあ、うん……悪かったよ、心配かけて」


 すると今度は鳩尾に鉄拳が喰らわされた。


 ぐえッ。


 俺は腹を押さえてしばらくうずくまり、それから顔を跳ね上げて口からつばきを飛ばした。


「……って、なんでだよッ、この暴力女ッ!」


 すると忖度のないいつもの綾香の笑顔がそこにあった。


「いまのはサッキィたちの分。ほら、マーシャ、みんなにも謝んなさい」


 見回すと柏木とその父親、そして雑賀さんのホッとした顔が俺を見つめていた。

 俺は一度ボリボリと頭を掻き、それからまたうつむきがちになって言葉をこぼす。


「あ、えっと、すみませんでした。あの、ご心配をお掛けしたようで……」


 すると柏木がおもむろに膝を寄せ、両手で包むように俺の手を握った。


「石破さん、謝るのはこちらの方です。睦月のためとはいえ苦しい思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」


 その合わさった拳に一粒の水滴が落ちてきた。

 俺はどうしていいのか分からず、とりあえず固まっていると頭上から別の声が聞こえてきた。


「娘の云う通りです。石破くん、本当に申し訳なかった」


 顔を上げると柏木宗佑がそこで深々と頭を下げていた。


「え、あ、いえ、そんな……って、あの、俺、そんなにヤバかったんでしょうか」


 訝しく眉を寄せると彼はようやく頭を上げ、今度は深々と肯いた。


「キミが無事に戻って来られて良かった。そして睦月のためにそこまでしてくれてありがとう」

「あ、いや、はい、どうも」


 やはりどう受け答えしたものか肩をすくめて戸惑っていると、そのとき雑賀さんが「あッ」と声を上げ、口に手を当てた。そしてあわてた様子でキッチンに駆け戻り、すぐにメイド服の裾をはためかせて帰ってきた。


 そして開口一番、

「ハイ、これどうぞ」

 

 雑賀さんがにこやかな笑みを湛えて俺に白い陶器とスプーンを手渡してくる。

 不審に思いながらも受け取るとそれはキャラメリゼの綺麗な焼き色にミントが添えられたスイーツのようだった。

 甘くて香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。

 けれどスプーンで記憶が甦り、反射的に喉元に込み上げるものを感じた俺は心ならずも顔を逸らして、それを突き返してしまった。


「うぇッ……っと、なんですか、これ」

「え、ひどい……石破くん、どうして」

「いや、ちがッ、おぇッ……」


 えずいて言葉が返せないでいると後頭部が軽くはたかれた。

 俺はなんとか迫り上がってきた酸っぱい物を飲み込んで、その平手の主を睨みつけた。すると綾香はすっくと立ち上がり、威丈高に腰に両手を当てる。


「あんたね、失礼極まりないわよ。それは約束の成功報酬でしょうが」

「はあ、成功? ……なんだって」


 なんとか言い返すと今度は雑賀さんが目を丸くして口を開いた。


「え、もしかして別人格が言ったことって憶えてないんですか」

「ベツジ……」


 途端に全てを解した俺の表情はサッと掻き消えた。

 そして数回憎々しげな顔つきで肯きを繰り返し、それから目蓋を閉じて迷惑な居候に昏い声で問う。


『……どういうことだ、ミシャ』


 しかしいくら待っても返事はない。


 ―――― ミシャの奴、居候のくせに居留守とはいったいどういう了見だ。


 しかし、まあ、わざわざ事情を聞くまでもない。

 俺は中三の冬に起こった事件を思い出す。

 あの日、図書室での騒動をなんとか収めて家に帰ると、その後すぐに栗饅頭がぎゅうぎゅうに詰め込まれた紙箱を胸に抱えた綾香がやってきた。


「なんだこれ」

「成功報酬よ」


 首を傾げると綾香は紙箱を俺に押し付け、「いいから受け取りなさいよ」と捨て台詞を残して帰って行った。

 で、今日は焼きプリンというわけだ。


 ―――― ミシャよ、オロチガミなんて厳しい存在にスイーツは似合わないぜ。


 ―――― というか、存在を他人にバラしちゃいけないんじゃなかったのか。


 なんだかもう怒りを通り越して虚しくなり、深いため息をつくとそばで立ち上がった柏木が呟くように訊いた。


「あの、それで何か分かりましたか」


 その問い掛けに俺はゆっくりと立ち上がり、気遣わしげな表情の柏木にひとつしっかりと肯いた。

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