10-12

 記憶から離れていた時間はほんのわずかだったと思う。

 けれどその間に二人に自慢の料理を振舞うことに対する男の執着はずいぶんと失われてしまったようだった。

 

「私の苦心作なのにもったいない。しかし、腹が空いていないなら仕方がないねえ。これは後で私が頂くことにしよう」


 小さなため息を吐いた男はおもむろに手にしていた匙を皿の横に戻した。

 そして軽やかで硬い靴音とともにその姿が視界の左側に消えると、次いでそちらから金属を擦り合わすような不快な音が響き始めた。

 

「今日は新しい趣向を用意したんだ。キヨに見せてあげようと思ってね」


 その浮き立つような声があり、そしてキイキイと鼓膜を突き通すような音が続き、やがて男が再び視界に姿を見せた。その後ろ手には腰の高さほどの金属製の配膳カートのようなものが引かれていて、音はどうやらそれから発せられているようだった。

 やがて再びコウジロウの背後に立った男は少年の右肩にそっと手を乗せた。


「二人で考えたんだよ。キヨが気に入ってくれればいいが、なあ、コウジロウ」


 そう言って男はにこやかに微笑み、その顔をコウジロウに寄せる。

 すると涎の雫を垂らしながらコウジロウの右顔面が絶望の表情で呻いた。


「……イッ……ヤ……イダィ……ヤメ……テ……」


 耳に入る辿々しい嗚咽に俺はほとんど無意識に視線を点滴が付けられた彼の右腕へと逸らしてしまう。

 その瞬間、俺は自分の弱さに辟易した。

 けれどすぐに目線を上げろと叱咤する。

 惨劇を見終えなければキヨの真意には行き着けない。

 またこの試練を投げ出せば、彼女は睦月の解放さえ拒んでしまうかもしれない。

 だから耐えろ。

 冷静に分析しろ。

 俺は意識体の思考回路に命令を下し、まずは手始めに目線が捉えている少年の右腕の観察を始めた。


 おそらくコウジロウも鎮静効果のあるなんらかの薬を点滴で投与されているのだろう。彼の肩から下がダラリと弛緩したまま動かないのはそのせいだ。

 また彼はタンクトップに似た白い下着を着せられていて、よく見るとその大きくはだけた胸の皮膚に指の先ほどの小さなマークが痛々しく刻まれていた。

 目を凝らしてみる。

 するとズームした視界にクッキリと認めたその形状に俺は思わず息を呑んだ。

 そして瞬時にサロンにあった医学書とその刻印が繋がり、なんとなく男の素性の一端が知れた気がして背筋に言いようのない薄ら寒さを覚えた。


 次いで俺は剣呑な印が刻まれた胸部からゆっくりと目線を上げていく。

 彼の首元には黒いスカーフのようなものが巻かれているが、よく見るとその下に銀色をした器具が垣間見える。おそらくは頭部が垂れてしまわないように首から上をそれで車椅子に固定しているのだ。


 不意に幼い頃の情景が甦った。

 それは綾香のママごとに無理矢理付き合わされた記憶。

 おもちゃの椅子に座らせた人形がどうしてもうつむいてしまう事に腹を立てた綾香がキッチンから輪ゴムを何本か持ってきた。

 そして人形の首と椅子の背もたれにそれを巻き付け、ようやく頭が下がらないようになると綾香は俺に自慢げな笑みを向けた。

 そのときの記憶とコウジロウの首に設置された器具が重なる。


 こいつがやっているのはあれと同じママごとだ。


 その認識に沸々とした怒りを胸の奥底に感じながら俺はさらに視線を上げる。

 すると再び捉えた惨たらしいコウジロウの顔面から視線が勝手に目を背けようとした。けれどそのときミシャの嘲りが耳に届く。


 ―――― ふん、貴様の覚悟は所詮そんなものか。


 それが意識体の外側で実際にミシャが口にした言葉なのか、それとも己の呵責が作り出したものなのかよく分からなかったが俺はとりあえずその声に首を振り、勝手に落ちていこうとする視線をしっかりと固定する。


「それじゃあ、始めようか」


 その陰湿な声にコウジロウの右唇が激しく歪み、流れ落ちる涙の勢いが増した。

 けれど男はそれを意にも掛けない様子でカートの天板へと右腕を伸ばす。

 そして手に何か細い器具のようなものをつかみ取るとそれをタクトの如く緩やかに宙にかざした。

 電球の光が反射してそれがキラキラと閃く。

 高校生の俺でさえそれが何か、ひと目で分かり愕然とした。


 ―――― まさか。


 ※ ここから閲覧注意です。

   残酷描写が苦手な方は飛ばしてください。


**********


 男が手にしていたのは誰もがよく知る医療器具、つまりメスであった。

 そして俺が抱いた悍ましい予測はすぐに現実のものとなる。

 メスが丸刈りにした彼の頭部に当てられた。


「もう頭蓋骨は外してあるんだ。被せているだけでね。しかしすでに皮膚が癒着し始めているからこうやって……」


 コウジロウが悲鳴とも嗚咽とも付かない絶叫を上げる。


「ふむ、局所麻酔の効果が切れ始めているのかもしれない。可哀想だから少し急ごうか」


 吐き気を堪えて目を凝らすと確かに少年の頭部にはまっすぐに引かれた一本の黒ずんだラインが見えた。メス尖はその線上をゆっくりと走り、やがて外周をひと回りすると男は血液が付着したメス刃を少し眺めてからカートに戻した。

 そしておもむろにコウジロウの頭頂部に両手を差し向け、少しだけ長く残した髪を指先で摘んでゆっくりと引き揚げたそのとき ――――


 失神寸前の俺の意識体から記憶がふっつりと切り離された。

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