10-11

 ミシャの姿が霧に霞み、やがて消え去ると俺はおもむろに膝下に目を向けた。

 そして長い息を吐き切るとゆっくりと頭を下げ、水面に顔を浸からせるようにして霧の中へと潜り込んだ。


 キヨの記憶に戻ると晩餐はまだ続いていた。

 相変わらずキヨの上半身は椅子の背もたれに縛り付けられ、首下に巻いた分厚いクッションで無理やり上向かせた視線はそのぼんやりとした視野にコウジロウと男の姿を捉えていた。

 やはりキヨには一抹の思考もなかった。

 彼女の瞳はもはやレンズとしての機能しか果たしていない。

 その痛々しく無感情な映像を見つめながら俺はもう絶対にここから目を逸らさないと心に決める。


 キヨが今もどこかから俺の姿を見ている。


 ミシャの言葉に俺は彼女の真意とはなにかということに思いを馳せた。

 悪霊に襲われそうになった睦月を匿ったのは救済以外に、もしかするとなにか別の思惑も含まれていたのかもしれない。

 俺は再びキヨが俺に放った最初のセリフに立ち戻る。


 ―――― ねえ、どうしてきたの。


 この質問の前には必ず否定的な言葉が置かれているはずだ。


 たとえば、

 、とか。


 だとすれば彼女はきっと柏木邸を訪れるすべての人間にこの問いを投げかけていたのだ。


 何を知ろうとして?


 おそらくはその者がどれほどの覚悟を持ってこの場所を訪れたのかを。

 そしてその者にどれほどの力量があるのかを確かめるために。


 ではいったい何のために?


 決まっている。

 キヨやコウジロウに地獄の苦しみを与えたあの悍ましい男に復讐をするためだ。


 けれど、もちろんキヨのお眼鏡に適う者などこれまでに皆無だっただろう。

 考えてみれば当然の帰結だ。

 霊であるキヨの声が聞こえたり、姿をはっきりと目に捉えられるような霊能者などそうそう現れるものではない。

 ましてや復讐を持ちかける相手が現れる望みなど砂漠に落とした縫い針を見つけるよりも至難の業だ。

 それでもキヨはこの屋敷を訪れる者たちに声を掛け続けたはずだ。

 そしてその度に期待は打ち砕かれ、何度も失望を繰り返すうちにキヨがこの世界に居続けるために炎を上げていたマグマのような残心は次第にその勢いと熱量を失い、ついには冷え切ってただの泥土に成り果ててしまっていたのかもしれない。


 だからあのとき彼女はほとんど一縷の望みも持たず、俺に声を掛けたに過ぎなかったのだろう。


 ―――― ねえ、どうしてきたの。


 お座なりに、投げ遣りに、あくまでも形式的に。

 まるで中に誰もいないことを知っている部屋のノックをする昏い心持ちで。


 けれど奇跡は起こった。

 1ミリたりとも期待していなかった返事が俺からもたらされたのだ。


『視えるし、聴こえる』


 何気なく俺が放った言葉はキヨにとってはさぞかし晴天の霹靂だったことだろう。

 そして慎重で聡い彼女は同時に考えた。


 果たしてこの者は自分たちをあの凶悪な男から解放するに足る力を持つだろうか。


 睦月の失踪。

 それは算段を見積もるために彼女がいろいろと手筈を整えた結果なのかもしれない。

 あるいは偶然にもあの悪霊が睦月を襲う現場に居合わせてしまっただけかもしれない。

 どちらにしてもキヨはそこで賭けに出たのだ。

 そして結果的にその思惑通りにシナリオは進み、俺は現在進行形でその術中にはまっているという訳だろう。

 要するに俺は今、キヨの信に値するかどうかのテストを受けている。

 そしてここで目を逸らしてしまってはその資格はないと判断される。

 つまり、そういうことだ。


 ならば……。


 俺は強い決意を持ってそのぼんやりとしたキヨの視界を睨みつけた。

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