10-10

 ここはどこだろう。


 見渡すかぎり濃い霧がかかった真っ白な世界で俺は我に返った。

 けれどその疑念はすぐに潰える。

 その浮遊感に思い到った。

 そうだった。

 俺はあの恐怖と凄惨に耐えられずキヨの記憶から手を離してしまったのだ。


 ここはおそらく現世と霊界との隔壁区間。

 このまま浮上すれば俺はあの悪夢のような記憶から帰還できる。

 胸を撫で下ろす自分がいる。

 けれどそれ以上に首を締め上げるような忸怩が自分を襲う。


 不意に足下から声が響いてきた。


「……飲み込むん……ジブ、腕……美味いか……ウジロウ……」


 掠れたバリトン。ねっとりと絡みつくような口調。

 さっきまで耳元で聞いていた途切れとぎれの声は紛れもなくアイツのもの。

 

 残酷で忌まわしい悪魔のような存在。

 分かっている。

 俺はあいつから逃げてきた。


 限界だったと思う。

 いくら修練を積んだ者でもあのような凄惨な記憶に耐えられるものなどそうそう

いないはずだ。

 ましてや俺はまだ十七歳の高校生だ。

 耐えられなくて当たり前だ、けれど……。

 

 …………悔しい。

 

 キヨやコウジロウを見捨ててしまうようで自分が情けない。

 けれど、だからといってどうすれば良いというのだろう。

 もうあそこに戻りたくはない。

 なんと言われようと俺は二度とあの気品溢れる狂気を目の当たりにしたくはない。


 本当にそれでいいのかと別の自分がどこかで非難の声を上げている。

 俺はゆるゆると首を振った。

 そして嘲笑いながらその誰かに言い訳を向ける。


 これは記憶に過ぎない。

 吐き気と悍ましさに堪えて最後まで記憶を見終えたとしても、その行為が彼らの救いになるわけではない。

 これはもうずっとずっと昔に起こってしまったことなんだ。

 いまさら過去を変えられる訳もない。

 俺はキヨやコウジロウに何をしてやることもできない。

 単なる傍観者であり続けるだけなら、そんなことにどんな意味があるというんだ。


 俺はうつむきがちに早口でそう捲し立てた。

 するといつのまにか非難は止んでいた。

 けれど代わりに空っぽにした胸にゾウゾウと風が吹き荒ぶ音が聞こえた気がした。

 

 そうだよ、意味なんかないんだ。

 だから俺はもう……。


『情けない奴よのう、いつまで経っても貴様は』


 鼓膜を通さず直に頭に響いてきた声に俺はゆっくりと顔を上げる。

 すると真っ白な視野の正面に赤い着物姿のミシャが立っていた。

 その白髪と透き通るような肌が霧に同化して、まるで薄紅の瞳と唇だけが宙に浮いているように幻想的だ。


『なんだよ、ミシャの出番はないはずだぜ』

『分かっておる。惨めな貴様を見物に来ただけだ』


 俺が頬を引き攣らせるとそれを見てミシャは満面の笑みを湛えた。


 こいつ……。


 俺は腹立ちを抑えて冷静に言い返す。


『なんとでも言ってくれ。俺はもう戻る』


 そして意識体を浮上させようと顔を空に向けるとその刹那、なんとも意地の悪そうな声が頭蓋に響いてきた。


『ふむ……まあ、それでは仕方がない。少々面倒だが、ワシは貴様以外の器を見つけることにしよう』


 俺はもう一度顔を戻し、ミシャを見つめる。

 彼女は瞳に微かな妖気を携え、いつにもまして軽薄そうな笑みを浮かべていた。


『……どういう意味だよ』


 ぶっきらぼうに訊き返すとミシャは驚いたように肩をすくめる。


『分からぬか? 決まっておろう。そろそろ貴様を見限る時が来たということよ』

『はあ? なにを訳の……』

『訳が分からんのは貴様の方だ、このド阿呆めがッ!』


 その言葉尻に向けて迫り上がった剣幕に訝しげな顔を向けると、いつのまにかミシャの瞳が深紅に染まっていた。


『これしきのことで何故なにゆえに逃げ出す必要がある。この龍蛇神おろちがみミシャの神器としてあるまじき卑劣であるぞ。恥を知れッ!』


 囂々ごうごうとそう叫び、向けてくる怒りの眼差しに俺はただ唖然とするしかない。

 どうして彼女がそんなに腹を立てているのか理解できなかった。

 ミシャは俺のやることに概ね無関心だ。

 普段なら余程強い邪霊と対峙しない限り、つまり自分の力を発揮できる場面でない限りは飄々として俺の決断に全てを委ねている。

 だから俺を不甲斐ないと詰ることはあってもこんな風に怒気を発したりはしないはずだ。

 それなのにいったいこれはどういうことだ。

 さっぱりその真意が分からない。

 俺は口を開きかけて、すぐに俺は考え直して噤む。

 理由を尋ねたところで素直にそれを教えてくれるほどミシャは寛容ではない。

 それどころかさらに怒り狂って何かとんでもない事態を引き起こさないとも限らない。

 ここはしばらく沈黙を守っておくほかはなさそうだ。

 そう考えてミシャをジッと見つめていると不意に彼女は言った。


『貴様、最初にワシと交わした約束を忘れたわけではあるまいな』


 約束……。

 ああ、なるほど、それか。

 俺はスッと得心した。


 ―――― あやかしを前に後退りすることはあっても、絶対に背は向けるな。


 憶えている。まあ、さっきまで忘れてたけど。

 次いで続くセリフも思い出した。


 ―――― 貴様が目を背けずに居れば、後はワシがなんとかしてやる。


 故に……


『……恐れるな』


 呟くとミシャがフフンと鼻で嗤った。

 その顔にもう怒りの痕跡はなく、代わりに純真な少女のような可憐な微笑みを浮かべていた。


 まったく、ずるい奴だ。


 俺はひとつ短いため息を吐いた。

 そして苦笑いを浮かべる。


『分かったよ。戻ればいいんだろ』

『ふむ、せいぜい苦しんで来い』

『他人事だと思いやがって』

『まあ、他人事だからな。悪く思うな』


 苦い顔をした俺が再度記憶に潜り込むために跪くと背後でミシャが思い出したように言った。


『ああ、それとな。キヨとかいう小娘じゃが』


 首を振り向かせるとミシャの微笑みがニヤリと不気味な様相に変わった。


『どうしてなかなか喰えん奴じゃ。貴様をどこぞで見ておる気配がする』

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