10-4
そこは四方の壁と床と天井、その全てが煉瓦で囲われた四角い空間のようだった。
けれど室内に光源はなく、闇と云っても良いほど薄暗い。
わずかに明かりが差し込むのはキヨの正面の壁。
そこにうっすらとした縦長の四角い光線が浮き彫りになって見える。
おそらくはドアと壁の隙間だろう。
少なくともその向こうには光があるようだ。
しかしキヨにはその扉を開ける術がないのだろう。
あるいはドアを開けようとする気力も失われてしまっているのか。
とにかくどちらにせよ彼女はこの場所に囚われている。
音は聞こえない。静寂に満ちている。
キヨの呼吸音と心臓の拍動だけがそこにある音のようだ。
またカビの臭いが濃く立ち込めていて、壁に持たせかけた背中や床に着けた足裏にじっとりとした水気が感じられる。
キヨは震えていた。
微かに歯鳴りもさせている。
室温までは感じられないが、凍えているようだ。
ならばこれは冬の記憶だろうか。
あるいはここが外気温の影響を受けない場所なのか。
けれどその震えは本当に寒さによるものなのか。
なんとなくそれだけではないように俺には感じられた。
俺はさっきの記憶を反芻してみる。
あの男は外科医だったのだろうか。
何か理由があって腕を切り落とさなければならない手術を行なっていたのかもしれない。そしてその手術現場をキヨがたまたま鍵穴から覗き見ていた。
その推察に俺は意識体とはいえ首を振りたくなった。
それはない。
何もかも論理的に破綻している。
この記憶の時代はおそらくは大正か昭和初期だろう。
それなら現代と比べるべくもないお粗末な手術室を使っていても不思議ではないが、さすがにあの状況はない。
なにせ肩口から腕を一本切除する大手術だ。
ブラックジャックではあるまいし、執刀医以外にも助手や麻酔係など大勢の人員が必要なはずで単独でそれを行うなどいくらなんでも非常識だ。
それにいくら旧時代とはいっても手術室のドアが鍵穴の付いた木製ドアということもないだろう。
とすれば考えられるのは……解剖?
サロンの古い書架に並んでいた人体解剖学の書籍が脳裏に浮かんだ。
男はあの本の持ち主なのだろうか。
そして職務として病理解剖か何かをしていたのだろうか。
解剖を行う場所はどこだ。
病院? 大学?
俺はまた頭を振りたくなった。
仮にそうだとしてもやはり単身で行うとは考えにくい。
それに解剖だからといって片腕を取り外す必要などあるのだろうか。
そのときキヨが挙げていた顔を膝に埋めた。
そして目を閉じる。
真の暗闇が訪れた。
その体はやはり震えている。
また酷い乾きによってカサついた唇の感触と胃が痙攣するような強い空腹が感じられる。
それでも彼女の意識が次第に
精神も肉体も疲れ切っている様子が痛いほどに伝わってくる。
この記憶はここで終わるのだろうか。
そう思ったそのとき、キヨの鼓膜が微かな音を捉えた。
それはカツンカツンと遠くで小さく響く靴音のようだった。
瞬間、キヨの上体が鋼のようにビンッと仰け反った。
後頭部が激しく壁にぶつかる衝撃が感じられた。
けれどキヨにはその痛みを感じる余裕さえないようだ。
彼女の奥歯がコツコツと鳴り始め、同時に呼吸が浅く速く激しくなる。
次第に靴音の響きが近づいてくる。
その響きから扉の向こうには長い通路のようなものがあるように思われた。
キヨが目蓋をギュッと閉じ、両手で顔全体を押さえつけるとそこから小さな呟きが漏れ出した。
「や……めて、もう……いや……」
未だかつて感じたことがないほどの激しい恐怖感に俺は戦慄した。
キヨは何に対してこれほどまでに怯えているのか。
拷問というワードが浮かび上がった。
近づいてくるのはあの男だろうか。
キヨはあの男に囚われ、拷問を繰り返されているのだろうか。
靴音がさらに大きくなる。
さらにそこにキイキイという奇妙な音も重なって聞こえた。
これはなんの音だろうか。
金属が擦れ合うような、あの黒板を指先で引っ掻くような嫌な音だ。
「あゝ……もう……いや、……会いたくない」
彼女の思念が俺の意識に混ざり込む。
それは背筋が凍りつき呼吸を忘れてしまうほどの恐怖。
会いたくない……誰に?
当然、近づいてくる男だろう……いや、違う。
キヨが再会を望まない相手は別の者だとなぜか俺は直感する。
扉のすぐ裏で靴音が止まると、奇妙な金属音も聞こえなくなった。
キヨの目蓋は閉じられたままだ。
指の隙間から苦しげな嗚咽がほとばしる。
錠前に鍵を差し込む音。
続いて重厚な解錠音が鳴り、そして恐ろしげな軋みとともに扉がゆっくりと開く音。
そして室内に数歩の靴音とあの奇妙な金属音が響く。
「……面会と食事の時間だよ」
そのテノールは紛れもなく腕を持ち上げたあの男の声だった。
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